読書感想文(関田 涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『火の娘たち』ジェラール・ド・ネルヴァル

Les Filles du feu(1854)Gérard de Nerval

 ジェラール・ド・ネルヴァルの『火の娘たち』(写真)は、彼が自殺する前年に刊行された最後の書籍です。また、このブログでは珍しく、誰もが知っている古典でもあります。
 といって、長編でも、同一のテーマに沿って書かれた連作短編集でもなく、ネルヴァルが書き散らした短編・詩・散文などを寄せ集めた作品集です。いや、それどころか翻案や代筆までもが含まれており、まさに玉石混交といった感じ。
文学史に名を残す名作」「文豪の遺作」というと、一分の隙もない完璧な作品を思い浮かべるかも知れませんが、『火の娘たち』はゆき当たりばったりの編集方針で作られたヘンテコな書物なのです。

 タイトルは「失われた恋」とする案もあったそうですが、なぜか『火の娘たち』に落ち着いたらしい。
 オクタヴィなんてあからさまに「水の娘」と書かれているし、「火」とは全く関係がない短編も多いので、これまた不思議な話です。

『火の娘たち』というと、ウンベルト・エーコが絶賛している「シルヴィ」を思い浮かべる方が多いと思います。しかし、この短編を収録するかどうかは最後まで決まらなかったそうです。
 逆に、翻訳から省かれることが多かった「アンジェリック」(※)や、ネルヴァルのオリジナルではない「ジェミー」などは早くから収録が決まっていました。

 邦訳は、青木書店、角川書店新潮文庫などから『火の娘』として刊行されましたが、先述のとおり集中最もボリュームのある「アンジェリック」が省かれています。
 個人的には「アンジェリック」こそが本書の白眉なので、これが収録されているちくま文庫版(序文や幻想詩編を含む完訳版)を強くお勧めします。

アレクサンドル・デュマ」À Alexandre Dumas
「ときに狂気が理性を駆逐してしまう」という大デュマのネルヴァル評に、ネルヴァルが反論した文章です。大デュマは決して悪口を書いたわけではなく、それどころか褒められるべき作家の資質と考えていたようですが、ネルヴァルは面白くなかったのでしょうね。
 結果的には、創作の信念を記した貴重な文章になりました。

アンジェリック」Angélique
 フランクフルトで『ド・ビュコワ神父の物語』という古本をみつけますが、高価だったため買わずにパリに戻ってきたところ、議会によって「新聞小説を新聞に掲載すること」が禁じられていました。そこでド・ビュコワ神父を歴史として扱おうとするのですが、今度は例の本がどうあっても手に入りません。
 ロレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』や、ドニ・ディドロの『運命論者ジャックとその主人』の如く、中断、脱線、無駄話が繰り返されます(作中「反省」と称して、スターンやディドロの模倣であることを認めている)。アンジェリックという女性の物語も、その脱線の一部で、ビュコワ一族に関する資料を集めているとき、偶然みつけたものなのです。
 僕は、こういうふざけた話が大好きです。神父の物語も終盤にようやく手に入るものの、それが読めるのは、何と『幻視者』という別の本です!

シルヴィ」Sylvie
 オーレリーという女優に恋をした「私」は、かつてヴァロワで出会った、女優と瓜ふたつのアドリエンヌ、そして幼馴染のシルヴィに思いを馳せます。
 エーコが「これまでに地上で書かれた最高にうつくしい書物のひとつ」と呼ぶ作品(『小説の森散策』で詳しく分析している)。「私」の意識は、複雑に入り組んだ過去、三人の女性、パリと故郷のヴァロワの間を飛び回ります。
 ほとんどストーリーのない、この短編がどうしてこんなに美しいのか。勿論それは、すべてが思い出でできているからです。

ヴァロワの民謡と伝説」Chansons et légendes du Valois
 その名のとおり、ネルヴァルが幼年時代を過ごしたヴァロワの民話を集めています。サンタクロースのモデルとなった聖ニコラの「肉屋と三人の子ども」のエピソードも載っています。肉屋が三人の子を切り刻み塩漬けにしてしまいます。七年後、聖ニコラがやってきて、子どもの塩漬け肉が欲しいといって肉屋を驚かせ、樽に手を当てて子どもを元の姿に戻したという伝説です。
 ネルヴァルは「現代の優れた詩人たちがわれらの父祖の素朴な詩興を活用し」て欲しいと結んでいます。

ジェミー」Jemmy
 米国で結婚したドイツ人青年と妻のジェミー。ところが、ある日、ジェミーがインディアンに攫われてしまいます。五年後、ようやく部落から逃げ出し夫の下へ帰ったジェミーでしたが、夫はすでに新しい妻を迎えていました。
 ネルヴァルのオリジナルではなく、オーストリアの作家カール・ゼールスフィールトの作品の翻案だそうです。そのため、この短編を削除している版もあるとか。妻がふたりで上手くやってゆけるはずはないわけですが、ジェミーの大胆な選択には驚かされます。

オクタヴィ」Octavie
 ナポリ旅行時に知り合ったイギリス人の少女オクタヴィ、オーレリーへの恋文、そして、そのなかで語られるナポリの女の思い出からなる短編です。「シルヴィ」と同じく、三人の女性にまつわる物語ですが、ボリュームも少なく、結構も単純です。

イシス」Isis
 エジプト神話の女神イシスに関するエッセイ。オシリスの妻であり妹でもあるイシスは、イエスの母マリア、また魔女のモデルにもなったといわれています。
 ネルヴァルは特別な思い入れがあるらしく、自身のナポリ旅行と併せて記載しています。

コリッラ」Corilla
 舞台女優のコリッラに恋したファビオは御用掛りに頼み、女優に会わせてもらいます。ところが、同じ時刻、別の場所で、友人のマルチェッリもコリッラと待ち合わせしていました。ふたりは決闘寸前までゆきますが……。
 こちらは恋愛を扱った軽めの戯曲です。コリッラは手練手管に長けているだけでなく、「ファビオは女優としての自分を愛し、マルチェッリは自分自身を愛している」と見抜く慧眼の持ち主でもあります。

エミリー」Émilie
 デローシュ中尉は、新婚にもかかわらず白兵戦に身を投じ戦死します。彼の妻エミリーは元ドイツのアグノー出身でした。デローシュはかつてここで年配のプロシア人を戦闘で殺していましたが、それがエミリーの父親だったのです。
 ネルヴァルの死後、オーギュスト・マケがこの作品を代筆したことが明らかになりました。マケは大デュマの代筆もしているため、信憑性が高いそうです。アイディア自体はネルヴァルのものなので、合作といった方がよいかも知れません。

幻想詩篇」Les Chimères
 十二編の詩がまとめられています。そのうちの「廃嫡者」は、大デュマがネルヴァルを論じた際に引用した詩です。つまり、序文と響き合っています。
 よくも悪くも、雑多な印象が強い『火の娘たち』ですが、これで一応は格好がつきました。

『火の娘たち』中村真一郎入沢康夫訳、ちくま文庫、二〇〇三