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読書感想文(関田 涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『大脱出』アンリ・グゴー

Le Grand Partir(1978)Henri Gougaud

 前回取り上げたアンナ・ゼーガースの『第七の十字架』と同じく脱獄小説です。
 けれど、共通するのはそれだけ。『第七の十字架』がナチ党の支配に抵抗した硬質な文学作品であるのに対し、こちらはアルフォンス・アレーやローラン・トポールと同様、フランスのユムールノワール(ブラックユーモア)小説です。

 実をいうと、こんな本をいつ買ったのか、なぜ買ったのか、全く覚えていません。扉をめくると、むくつけきおっさんが目に飛び込んできますが、この顔に見覚えもありません……。
 まあ、そういう本もたまにあるのですが、何年後、あるいは何十年後かには、何かしらのつながりがみえるのが常です。同じ著者の別の本が訳されるとか、映画化されるとか、誰かのエッセイで取り上げられるとか(※)。
 ところが、この本、あるいは著者のアンリ・グゴーに関して、何ら新しい情報が得られていません。多分、日本では今後も話題になることはないんじゃないかなと思います。

 といって、『大脱出』が救いようのない駄作かというと、全然そんなことはなく、寧ろ掘り出しものって感じ。
 いや、だからこそ、皮肉にも、今ではほとんど忘れ去られてしまったともいえるでしょうか。怒った読者が、本を壁に叩きつけたり、焼却炉に投げ込んだりするような作品だったら、悪い意味で歴史に残ったかも知れませんからね。

 牢獄で一緒になった四人の男たち。新入りの気弱な中年ベール、未来を予見できるフラップ、コメディアンのビフュール、のろまでたくましいヴェルタディエ。彼らは脱獄するため、こっそり穴を掘り続けます。
 一方、牢獄こそが天国と考えている者(スルスフェール)もいて、彼は囚人たちに「塀の外なんて存在しない」と説き、それによって自殺者を生んだりしているのです。外の世界を夢みるベールたちにとって、スルスフェールは邪魔な存在です。また、脱獄計画を密告しようとする者も現れ、気が気ではありません。
 そのため、愚鈍で乱暴な大男(女を殺して食った罪で服役している)ラヴォワールを味方につけようとするのですが……。

 この小説をユニークなものにしているのは、ベールの語る「お話」です。
 ベールは、ラヴォワールに捕まり、暴力を受けそうになります。そこで仕方なく、自分の過去や知人のことを物語るのですが、彼の話は聞き手を満足させるに足る面白さを備えていました。
 例えば、こんな感じ……。

・若い頃に家を飛び出した男が記憶喪失になる。その男は、やがて殺人を犯し、殺した相手に「兄貴が復讐にゆく」と告げられる。ビクビクしながら過ごしていたが、老人になっても、兄はやってこない。あるとき、彼は、殺した相手は自分の弟で、待っていたのは自分自身だったことに気づく。

・青いスカーフを巻いた少女を追い掛けて、マフラーを奪うとスカーフの端に娘の首がぶら下がっていた(これはフラップに話した夢)。

・ひょんなことから宝の地図を手に入れたベールの兄ベネディクタンは、大洋の真んなかにある「世界の釘」を目指す。しかし、嵐に巻き込まれ、辿り着いたのは人食い人種の住む島だった。仲間は全員食われてしまうが、ベネディクタンは知恵を絞って島を脱出する。その後、アメリカ人ブラックフートに救助されるものの、フェニックスで行方不明になってしまう。

・ベネディクタンの捜索に向かったベールの二番目の兄リューヌ=ブリュレは、若い占者と道連れになるが、死の村で占者は殺されてしまう。その後、老婆(実は体を燃やされた隠者が乗り移っている)にベネディクタンの居場所を聞き、フェニックスのブラックフートに会う。しかし、リューヌ=ブリュレもまた迷路で姿を消してしまう。


 これによって、読者は「ラヴォワールを退屈させると殴られるから、必死に面白い話を作り出しているんだな」と考えます。なぜなら、物語ることをやめれば身に危険が迫るという設定には、『千一夜物語』という余りに有名な前例があるからです。
 シェヘラザードと同じく、やがて、ベールは物語の力によって、ラヴォワールの友情を獲得します。

 しかし、この小説においては、ベールの語りが面白ければ面白いほど、対立するスルスフェールの説を裏づける結果になってしまいます。
 ベールの物語が楽しいのは、真実ではなく虚構だからである。塀の外の世界なんて存在しないから、ベールは頭のなかで荒唐無稽な物語をこしらえるしかなかったのだ……というわけ。

 閉ざされた空間において、そのような考えを吹き込み続けたら、いずれは本気にしてしまう者も出てくるでしょう。それは地球平面説や天動説を信じていた人々と大して変わりはありません。
 しかし、問題は、似非科学が流布することなんかではなく、ここが監獄だってことです。作中では、それぞれの量刑は明らかになっていませんが、ほとんどの囚人が殺人を犯しており、なかには死刑を求刑された者もいるはずです(フランスで死刑が廃止されたのは、この本が出版された三年後の一九八一年)。
 つまり、スルスフェールの説を好意的に解釈すると「死刑や終身刑の囚人が希望を抱いたって空しいだけ。それなら、いっそ塀のなかがすべてだと思った方がよい」となるのです。

 それでも、ベールたちは脱獄を試みます。
 監獄から脱出しさえすれば、薔薇色の未来が待っていると信じているわけではなく、外の世界など存在しないだろうと半ば諦めているにもかかわらずです。

 勿論、塀の内外というのは比喩に過ぎません。
 新しいことを始めようとする場合、人は強気になったかと思うと弱気になったり、第一歩がなかなか踏み出せなかったり、ウジウジと悩んだりします。
 つまり、監獄は自ら作り上げた高い壁であり、囚人たちは頭のなかの声なのではないでしょうか。
 ネガティブな悪魔を振り払い、思い切って外に飛び出すことが「大いなる始まり」となるのですが……、本書はそんな綺麗ごとで丸く収まってしまうほど甘くはありません。

 終盤になって、ベールは、ふたりの兄を殺したブラックフートを殺害した罪で服役したことが分かります。しかも、彼は、脱獄した後、兄の遺志を継ぎ、「世界の釘」を探す旅に出ると語ります。
 けれど、いうまでもなく、すべてはベールの空想です。
 兄もいなければ、「世界の釘」なんてものも存在しません。ベールは盗んだ車で事故を起こし、人を殺してしまったケチなチンピラに過ぎないのです。

 とどのつまり、塀の外にあるのは自由な未来なんかではなく、ちっぽけな内なる世界というわけです。
 釈迦の手のなかで暴れていた孫悟空のように、ベールはどこまでいっても自分自身から逃れられそうにありません……。

※:シルヴェスター・スタローンアーノルド・シュワルツェネッガーが共演した『大脱出』(Escape Plan)という映画が二〇一四年に日本でも公開されたが、当然ながら邦題が同じだけで何の関係もない。ちなみに小説の方の原題『Le Grand Partir』は直訳すると「大いなる始まり」となる。

『大脱出』榊原晃三訳、白水社、一九八二