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読書感想文(関田 涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『はかない人生』フアン・カルロス・オネッティ

La vida breve(1950)Juan Carlos Onetti

 フアン・カルロス・オネッティが創造した架空の街「サンタ・マリア」は、ウィリアム・フォークナーの「ヨクナパトーファ」と同様、複数の作品にまたがって登場します。
『はかない人生』(※)では、主人公ブラウセンが書いている映画のシナリオ内の舞台となります。ブエノスアイレスモンテビデオとともに重要な役割を果たす都市なのです。

 それにしても、ラテンアメリカ文学を語る際、オネッティも、彼の代表作である『はかない人生』も話題になることが少ないのが不思議でなりません。ひょっとすると、小国ウルグアイの作家だからなのかも知れませんが、無視してしまうのは何とも勿体ない。
『はかない人生』は、南米の文学らしく実験的かつ大衆的で、読書中、何度も「これが今から六十年以上前の作品か」と驚いてしまうほど複雑で斬新です。普通の小説では飽き足りない擦れっ枯らしの本読みの方でも、必ずや満足することでしょう。

 あらすじは非常に紹介しづらいのですが、頑張ってみます……。
 ブエノスアイレスの広告代理店に勤めるブラウセンは、乳癌の手術をした妻との関係が悪化し、会社も馘首されてしまいます。
 友人とは表面上は上手くやっているようにみえて、実は妻を巡る過去にわだかまりを残しています。酒を飲んだり、無為に過ごす日々が増え、ブラウセンは次第に現実から逃避してゆきます。
 その方法はというと、ひとつは隣室に住む娼婦と偽名を使ってのつき合いであり、もうひとつは自ら書いている映画のシナリオのなかの登場人物に感情移入することです。
 やがて、殺人事件に巻き込まれたブラウセンは……。

 不幸に束になって襲われたブラウセンは、『バビロンを夢見て』のC・カードのように空想による現実逃避をします。しかし、彼の場合、自分の殻に閉じこもるだけでなく、あたかも解離性同一性障害の如く様々な面をみせてくれます。
 妻や同僚らの前でのどことなく遠慮がちで窮屈な姿、モンテビデオで過ごした青春時代の奔放な姿、娼婦を殴る暴力的な姿、シナリオのなかの冷静で知的な医師の姿……。

 ブラウセンは、複数の人物を演じることによって精神の安定を図りますが、彼が望むと望まざるとにかかわらず、人間関係はどんどん深みにはまってゆきます。
 娼婦の愛人に殴られたり、過去の街モンテビデオを娼婦と旅したり、妻の妹と関係を持ったりと、偽りの仮面がいつ剥がれてもおかしくない状況になるのです。

 同時に、小説の構造も複雑化します。
 ブラウセンの空想の世界に現実の人物が混じったかと思うと、オフィスの隣には「愛想が悪くて、眼鏡をかけており、よっぽど気取った女か親しい友人にしか好感を持たれないだろうと思われる男」であるオネッティ(作者)まで登場する始末。
 それによって、トロンプルイユように、虚構内の階層が容易には把握できなくなってしまいます。まあ、オネッティの登場は、メタフィクションとしての仕掛けというよりは、ちょっとしたおふざけのような気がしますが……。

 しかし、この物語の最もユニークな点は、ブラウセンのどの顔も結局は破綻をきたさず、それなりにその人物を演じてしまえることにあります。
 実をいうと、綻びは数々生じているのですが、上手く立ち回るというより、それらが大きな問題にはならず、淡々とやり過ごしてしまう。それは、まるで、都合のよい夢のなかのできごとのようです。

 そう。ブラウセンがみせる数々の顔は、作中作も含め、全てが夢なのかも知れません。
 複数の人生を同時に生きることで、ようやく存在意義が見出せる特異的な人物ブラウセン。たとえフィクションのなかとはいえ、こんな男が生きていられることは、リアルに悩みを抱える読者にとって大きな救いとなることでしょう。
 ブラウセンの「愛も、夢も、希望もちょっぴりな、はかない人生」は、ささやかな幸福感を伴い、まだまだ続いてゆきます。

 最後に、「面白いラテンアメリカ文学」を期待する読者には、エンタメ的な展開も、きちんと用意されていることを保証します。
 そのひとつが隣室の娼婦の殺人事件であり、もうひとつが失踪したイギリス人の捜索あるいは人妻の死(シナリオ内)です。
 殺人の方は、探偵となって謎を解くのではなく、犯人側に立って逃亡を手助けするのです。その理由というのが、自分の代わりに女を殺してくれたからで、犯人との間に同性愛に似た友情が芽生えてきます(マヌエル・プイグの『蜘蛛女のキス』を思い出してしまう)。
 捜索の方は、不条理小説を読んでいるような雰囲気(こちらは、アントニオ・タブッキの『インド夜想曲』とか、サミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』みたいかな)で、同行していた人妻の突然の死と、イギリス人の存在そのものが謎に満ちています。

※:『La vida breve(はかなき人生)』とは、スペインからアルゼンチンに亡命したマヌエル・デ・ファリャ作のオペラのこと。

『はかない人生』鼓直訳、集英社文庫、一九九五