読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『冷たい肌』アルベール・サンチェス=ピニョル

La pell freda(2002)Albert Sánchez Piñol

 ベルナルド・アチャーガの『オババコアック』のときにも書きましたが、アルベール・サンチェス=ピニョルの『冷たい肌』(写真)はスペイン文学(カスティーリャ語。話者数は約四億二千万人)ではなく、カタルーニャ文学(カタルーニャ語。話者数は約一千万人)になります。
 カタルーニャ文学というと、古いものではミゲル・デ・セルバンテス・サアベドラの『ドン・キホーテ』にも登場するジュアノット・マルトゥレイとマルティ・ジュアン・ダ・ガルバの『ティラン・ロ・ブラン』が有名です。
 ほかにも、マルセ・ルドウレーダの『ダイヤモンド広場』、エミーリ・ロサーレスの『まぼろしの王都』、ジェズス・ムンカダの『引き船道』などが翻訳されていますので、お読みになった方もおられると思います。
 ちなみに、Wikipediaの「最も多く翻訳された著作物の一覧」をみると、『冷たい肌』が三十七か国語、『ダイヤモンド広場』が三十四か国語に翻訳されたとあります。それを踏まえてか、本書の帯には「カタルーニャが世界に発信する新しい文学」と書かれています。

 と書くと、多くの方は「カタルーニャ独自の文化や習慣をテーマにした文芸作品」を期待されるかも知れません。しかし、そんな予想はあっという間に打ち砕かれます。
『冷たい肌』はカタルーニャが舞台ではないし、そもそも主要な登場人物はアイルランド人とドイツ人です。いや、カタルーニャらしさなどまるっきりないことに戸惑いを覚えた直後、さらに異様な展開に度肝を抜かれることでしょう。

 実は、この本、読書中に何度も驚かされるのですが、最初の衝撃は、以下のあらすじを読んでいただけると分かるかと思います。
 一方、これ以降すべてがネタバレになるため、本書のインパクトを存分に味わいたい方はブラウザを閉じて古書店ないし図書館に向かってください。多分、想像したものとは違うでしょうが、面白いことは面白い小説だし、ある意味イアン・バンクスの『蜂工場』より驚かされますよ。

 アイルランド人の孤児である「私」は、アイルランド独立戦争に命を捧げたものの、その後の内戦に嫌気が差し、気象観測官として南氷洋の孤島に赴きます。その島は端から端までわずか一キロ半ほどの大きさで、最も近い陸地まで六百海里もあり、住んでいるのは気象観測官と灯台守のみという正に最果ての場所です。
 ところが、前任の気象観測官の姿はなく、灯台守らしき男(カフォー)は気が狂っているようにみえます。それでも島に残ることに決めた「私」は、その夜、とんでもないできごとに遭遇します。
 何と、海から何百という蛙人間(後にシタウカと名づける)が上陸し、小屋を襲ってきたのです(※)。やっとのことで撃退したものの、迎えの船がやってくるまでは一年もあることに愕然とします。

 序盤はゾンビ系のホラー映画の原作みたいで、実際、映画化の話もあったようです。
 けれども、舞台は絶海の孤島、ほとんどの場面で登場人物は「私」、カフォー、シタウカの雌であるアネリスの三人のみというシンプルな設定ですから、映画化してもゲーム化しても、小粒すぎてしまうでしょう。
 といって、この作品の価値を貶めるわけではありません。文学なのですから、派手なアクションや仕掛けなんかより、極限の状態に置かれた人間の心理をいかに本物らしく(あるいは嘘臭く)描くかという点にこそ読みどころがあります。

 実際、普通のホラー小説であれば、じわじわと迫りくる恐怖や、脅威を取り除くための知恵や勇気を繰り返し描写するはずです。ところが、『冷たい肌』は、「私」とカフォーのやり取り、またアネリスを巡る三角関係に比重が置かれています。
 そういう意味で、シタウカの襲撃は、ディーノ・ブッツァーティの『タタール人の砂漠』やJ・M・クッツェーの『夷狄を待ちながら』と同じく象徴にすぎないともいえます。

 まず、「私」は政治活動に失望し、半ば世捨て人となりました。容易には帰ってくることのできない無人島を選んだのは、相当の失望を抱いていたことの証にほかなりません。
 その癖、彼は怪物に襲われても、決して挫けることなく、まるで機械のように不眠不休で戦い抜きます。絶望した人間が、なぜこれほどまでに生に執着するのか疑問に思われるかも知れません。
 しかし、命をかけて戦うことこそが「私」の望みだったのです。
 独立戦争の際は、なまじ教育を受けていたため兵站に携わっており、戦闘に参加することができませんでした。新政府に不満を持ったのも、そのときの不完全燃焼が原因だったといえないでしょうか。

 他方、カフォーは、「私」が島にやってきたとき、すべてを打ち明け帰還することができたにもかかわらず、黙して語らず島に残るという選択をしました。精神に異常をきたしているからとも罪人だからとも取れますが、真の理由は別にあります。
 カフォーは、アネリスとの性交の虜になっています。夜間の怪物たちの襲撃をやり過ごし、また一日生き延びたことを実感すると、その後、何時間も狂ったようにアネリスと交尾し続けるのです(カフォーの言動はやや理解しにくい面が多いが、それがオチにつながるので余り気にせず読み進めること)。

 それを知った「私」は、鬼畜の仕業と内心カフォーを軽蔑します。ところが、自らも欲情してしまい、アネリスと交わってみたところ、至福の快感が襲ってきたのです。
 タイトルの「冷たい肌」とは、変温動物であるシタウカとの触れ合いを指します。この冷たさがこの世のものとは思えないオーガズムへと導いてくれたわけです。
 シタウカは、体毛は一切ないものの、体型はモデルも羨むほどで、顔はエジプトの彫刻に似ています。例えば、『アバター』のナヴィをイメージすれば、性欲を刺激されるのも無理はないと思えます(フィリップ・ホセ・ファーマーの『恋人たち』のように)。
 また、極限状態での獣姦という背徳感も悦楽の源となっているかも知れません。

 真面目な文芸作品と思いきやバリバリのアクションホラーで、ホラーかと思いきや異形の者との性的交わりを描くという極めてユニークな小説です。
 セックスに目覚めた後、「私」は、身を守るためとはいえ罪悪感を覚えず殺戮を繰り返していたシタウカが、実はある程度の知能と社会性を備えていることを見出し、怪物は寧ろ自分たちの方ではないかと考えます。この辺は、リチャード・マシスンの『アイアムレジェンド(吸血鬼、地球最後の男)』と同じなので新鮮味はありませんが、女や子どもを介して虐殺や戦争の愚かさに気づくという意図がみえます。

 なお、いくら愛情を注いでもアネリスは応えてくれません。何度交わろうと、「私」に対して特別な感情は一切示してくれないのです。
 最高の快感と、最低ともいえる無反応は、ラヴドールならともかく、笑ったり泣いたりはできる高等生物であるだけに「私」の心をひどく苦しめます。その結果、「私」はアネリスに暴力を振るうようになり、眩しい裸体をみずに済むよう服を着せます。

 そうした行為は、まるでカフォーのコピーです。彼が行方不明になってから、「私」は彼の行動を模倣、いや、どころか人格が乗り移ったかの如き態度をみせるようになります。
 そして、それがラストの驚きにつながるわけですが……。

 最後の最後に至るまで、これでもかというくらい変なものをぶち込んできたのは、恐らくこれが文化人類学者であるサンチェス=ピニョルの処女長編だからではないでしょうか。別の職業に就いていた、ある程度の年齢の者が、最初の作品を書く場合、それまで温めていたアイディアを全投入することがよくあるからです。
 傑作かと問われると答えにくいのですが、とにかくお腹一杯になれることは保証します。これが、どうして文庫化されなかったのか不思議でなりません。

 なお、このブログにおいて、二十一世紀に新作として出版された本を扱うのは、何と今回が初めてです。どんだけ時代とズレてるんだろう……。

※:レイ・ブラッドベリの短編「霧笛」は、同じような状況で、百フィートもある首長竜(?)が襲ってくる。

『冷たい肌』田澤耕訳、中央公論新社、二〇〇五

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