読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『去年マリエンバートで/不滅の女』アラン・ロブ=グリエ

L'Année dernière à Marienbad(1961)/L'Immortelle(1963)Alain Robbe-Grillet

 今年最初の更新なのに「去年」の話ってどうなんだろうと思いつつ、アラン・ロブ=グリエの『去年マリエンバートで』(写真)です。

 これは書籍よりも、アラン・レネ監督の同名の映画を思い出す人が圧倒的に多いと思います。難しい映画でしたが、そのシナリオである本作品も、当然ながら非常に難解。
 ロブ=グリエは、黒澤明監督の映画『羅生門』(1950)に影響されたと語っていますが、実はアドルフォ・ビオイ=カサレスの『モレルの発明』(1940)との類似(パクリ?)が古くから指摘されています。

 日本では『去年マリエンバートで』が邦訳された頃、『モレルの発明』はまだ訳されておらず、現在はその逆で『去年マリエンバートで』が絶版です(※1)。
 そんな比較しづらい状況になっていることもあり、どの辺がどう似ているのかについては、後ほど触れたいと思います。

 なお、『羅生門』と書きましたが、黒澤の『羅生門』の原作は、同じ芥川龍之介の『藪の中』であり、これに似ているのは寧ろ『消しゴム』(1953)の方ではないでしょうか。
 この作品は、ある殺人事件について捜査を進めるものの、胡散臭い関係者、曖昧な証言、不確かな証拠によって、ますます混沌としてくるという一種のアンチミステリーです。
 処女作のせいか、ロブ=グリエにしては読みやすく、推理小説としてもなかなかの出来です。『オイディプス王』や『藪の中』のみならず、アガサ・クリスティの『アクロイド殺し』(1926)を換骨奪胎している感もあるので、ヌーヴォーロマンを毛嫌いしている人も、ぜひ一度読んでみてください。

 脱線はこれくらいにして、本題に入ります。
 この本に収められた二編は、いずれも「シネロマン(ciné-roman)」という呼び名を与えられています。
 科白が非常に少なく、また戯曲とは異なり、画面の構図やカメラワーク、音響などについての指示が多いのが特徴です。つまり、小説ともシナリオとも違う、いわば「字コンテ」に近いといえるかも知れません。

 これを読者は、どのように楽しめばよいのでしょうか。
 ロブ=グリエは「ここには、その作品(映画のこと)についての、解説的な記述が認められるにすぎぬであろう」と述べていますが、僕は、やはり独立したテクストとして捉えるべきだと思います。
 勿論、映画のために書かれたものであることは間違いありませんし、巻頭に掲載されている多数のスティル写真を参考にしてもよいでしょう。しかし、映画を観ていないと全く意味がないなんてことはありません。
 僕は、『去年マリエンバートで』は遥か昔に一度観たきりで、『不滅の女』は観たことがありませんが、十分に堪能できました。いや、寧ろ、読者の注意を喚起してくれたり、狙いを明らかにしている箇所などがあり、映画よりも理解が深まると思います。

去年マリエンバートで』の主要人物は、X(男)、A(女)、M(Aの夫?)の三人。Xは、去年フレデリクスバートでAと会ったと訴えますが、Aは「そこを訪れたことがないので、人違いではないか」と答えます。
 過去の情事を匂わせながら執拗にアプローチするXと、白を切りとおすAのやり取りが延々と続きます。やがて、Aは次第に記憶を取り戻してゆき(Xの手管に引っ掛かり?)、最後にはMを捨て、Xとともにホテルを去るのです。

 冷たく乾いた客観描写を得意とするロブ=グリエには、シネロマンという形式が合っているような気がします。小説で心理描写を排すると、状況描写と登場人物の言動のみが頼りになりますが、コンテの場合、カメラの動きや構図でもって、作者の意図を読者(または観客)に伝えることが可能となるからです。

 尤も、その反面、小説や映画よりも制作者の影が色濃く現れてしまうという欠点(?)があります。
 ハードボイルド小説など一人称の客観描写と比較すると、より機械的で作りものめいた感じになりますが、この作品の場合、それが却って幸いしています。
 なぜなら、過去の亡霊が集ったかのようなホテルにおける虚ろな男と女は、まるで機械人形か、予め与えられた科白しか喋れないフィルムのなかの役者みたいだから……。

……というところで、唐突ですが、前述したとおり『モレルの発明』との類似点に移りたいと思います。
 だからといって、剽窃を詰るといった意図はありません。両者を比較することによって、超難解な『去年マリエンバートで』が多少は理解しやすくなるような気がするのです。

 まずは『モレルの発明』のあらすじから紹介します。
 長きに亘る逃亡生活の末、怪しい無人島(ニューブリテン島の近く?)に辿り着く「私」。そこに闖入者たちが現れ、「私」はそのなかのフォスティーヌという女性を好きになります。しかし、彼女たちは「私」を完全に無視します。
 闖入者は「私」が生み出した幻なのか、それとも「私」は人の目に映らない存在になってしまったのでしょうか。
 その答えは、モレルという男が発明した機械にありました。それは、撮影された者の命を奪うものの、フィルムのなかで永遠に生き続ける機能を備えていました。
 つまり、モレルやフォスティーヌは、立体映像が作り出した虚像であることが分かります。そして、過去の亡霊を愛してしまった「私」が取った行動とは……。

『モレルの発明』の冒頭に「まるでロス・テケスやマリエンバートに長く滞在している避暑客のような」という一文があります。
 マリエンバートとは、チェコの温泉保養地マリアーンスケー・ラーズニェ(Mariánské Lázně)のドイツ語読みです。
 実をいうと、『去年マリエンバートで』でマリエンバートという地名が登場するのは、「フレデリクスバートなんかにいったことはない」というAに対して、Xが「それでは、きっと別の場所だったのです。カルルスタットか、マリエンバートか、あるいはバーデン・サルサ――あるいはここ、この広間でだったかもしれませんよ」という一箇所のみなのです(※2)。
 ボリス・ヴィアンの『北京の秋』における「北京」と同じように、物語と無関係で、なおかつ決してメジャーといえないこの土地の名をタイトルに用いたのは『モレルの発明』に影響されたからではないか、と訳者の清水徹は書いています。

 そもそも、ロブ=グリエは『モレルの発明』の書評を書いており(※3)、この作品にインスパイアされたことは間違いありません。
 肝腎なのは、一体どこに刺激を受けたか、ですが……。

 閉ざされた空間における、限定された人物による恋の駆け引き(X、A、Mは、「私」、フォスティーヌ、モレルに対応する)という面でも、確かに両者は似通っています。
 しかし、最も重要なのは「エンドレステープのように繰り返し繰り返し、同じ女性に愛を告白する」というモチーフではないかと思います。

 姿もみえ、声も聞こえているのに、そこに存在しない幻の女を愛してしまった「私」は、最後に彼女と同じ次元に赴くことを選択します。
 人形や二次元の女に恋するのと同様、傍目には狂っているようにみえますが、彼の愛は本物です。この次元や時間を飛び越えた狂気や情熱は、この小説の最大の魅力であり、そこにロブ=グリエは惚れたのかも知れません。

 他方、『去年マリエンバートで』は、XとMのゲームに象徴されるとおり、理屈っぽくクールな格好よさがあります(映画でAを演じたデルフィーヌ・セイリグの衣装をココ・シャネルが担当したことも、イメージのよさにつながっているのかも)。
 ここはぜひ、両者を読み比べてみて欲しいと思います。

 今回は、あちこちに話が飛び、何の感想文だか分からなくなってしまいました……。
 ついでといっては何ですが、併録されている『不滅の女』についても簡単に触れておきます。
 こちらも同名映画のシナリオですが、メガホンを取ったのはロブ=グリエ自身です。『去年マリエンバートで』とよく似た作品であるものの、映画も原作もそれほど知られてはいません。

 舞台はイスタンブール。N(男)、L(女)、M(犬を連れたサングラスの男)、カトリーヌという男女が登場します。けれど、彼らが何者なのか、ほとんど情報を与えられないまま、NとLのぼんやりとした情事が続いてゆきます。
 やがて、Lは突然姿を消します。Nは、やっとのことでLと再会しますが、それも束の間、Lは様々な謎を残し、Nの目の前で事故死してしまいます。

 少しずつ異なるシーンが何度も反復される点や、謎が解明されずに終わる点は、いかにもロブ=グリエらしいといえます。
 Lを殺したのはNなのか。NもLと一緒に死んだのか。それらは、いかようにも解釈できるでしょう。ぜひ、テクストを何度も読み返して、自分なりの答えをじっくりみつけてみてください。
 ただし、不自然に「のだ」を多用した訳文は非常に読みづらいので、それなりの覚悟が必要ですが……。

 なお、『去年マリエンバートで』は、同じ筑摩書房の『世界文学全集』第65巻にも収録されていますが、そこには『不滅の女』が入っていません。両方読みたい場合は、必ず単行本の方を入手してください。

 最後になりましたが、本年も取り留めのない読書感想文を書いてゆくつもりですので、何卒よろしくお願いいたします。

※1:『モレルの発明』は、映画『ピアノチューナー・オブ・アースクエイク』の公開に合わせ新装版が発行された。ただし、映画の「原作」ではなく、「原案」らしく、内容はかなり異なるそうだ。

※2:マーク・トウェインの「食欲治療所にて」(At the Appetite Cure)という短編に「肥満を治すためならマリエンバットへ。リューマチを治すためならカールスバットへ」という記述がある(『マーク・トウェインのバーレスク風自叙伝』収録)。

※3:『モレルの発明』の仏訳が刊行されたのが一九五二年。ロブ=グリエの書評は一九五三年発行の雑誌に掲載された。


去年マリエンバートで/不滅の女』天沢退二郎蓮實重彦訳、筑摩書房、一九六九

→『豚の戦記』アドルフォ・ビオイ=カサレス

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