読書感想文(関田 涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『亡き王子のためのハバーナ』ギジェルモ・カブレラ=インファンテ

La Habana para un infante difunto(1979)Guillermo Cabrera Infante

 ギジェルモ・カブレラ=インファンテは、処女長編の『TTT ―トラのトリオのトラウマトロジー』(Tres tristes tigres 一九六七)が二〇一四年になって、ようやく翻訳されました。
 訳すのは大変だったようですが、読むのもなかなか骨が折れます。

 一方、『亡き王子のためのハバーナ』は、『TTT』より大分読みやすくなっています。言葉遊びや饒舌さ(何と、話し相手の科白のなかにまで、一人称の解説が入り込む)は変わらないものの、実験的な部分がほとんどないからでしょう(最終章だけは幻想味が強くなり、腟のなかをジュール・ヴェルヌの『地底旅行』のテクストとともに旅したりする)。
 タイトルは勿論、モーリス・ラヴェルの『亡き王女のためのパヴァーヌ』(Pavane pour une infante défunte)のもじりで、早口言葉である『TTT』同様、大した意味はありません。

『TTT』はキューバ革命直前のハバナ(ラ・アバーナ)のエル・ベダードという歓楽街に焦点を絞ってありましたが、『亡き王子のためのハバーナ』は一九四〇〜五〇年代のハバナを舞台にした自伝的作品です(十二歳から二十五歳頃まで)。
 また、ほとんどがヰタ・セクスアリスであるため、二十世紀を代表する性愛文学の傑作のひとつともいえるでしょうか。
 カブレラ=インファンテの長編は、上記二作だけですが、いずれも六百頁弱というボリューム(しかも『亡き王子のためのハバーナ』は、ほとんど改行のない二段組!)。日本版にして全十一巻ある『我が秘密の生涯』(作者不詳)や、十二巻のジャコモ・カサノヴァの『カザノヴァ回想録』などに比べたら可愛いもんですが、『亡き王子のためのハバーナ』は執筆に十年かかっただけあって、精微かつ濃密です。

 田舎から首都ハバナに引っ越してきた十二歳の「ぼく」。
 一家は「豪邸」と呼ばれる、かつての立派な屋敷が老朽化し、貧民のアパートに変わったところに住むことになります。そこには様々な人種、国籍、階級、職業、性癖の人々が暮らしていました。「ぼく」は、そんな貧しくとも陽気なハバナっ子に囲まれて成長します。
 ジャーナリストとなり、妻を娶りますが、結婚後はますます女漁りが活発になります。やがて、「ぼく」にも革命の波が襲いかかり……。

 例えば、マヌエル・ロハスの『泥棒の息子』とは、自らが少年から青年に成長する様子を描いた自伝的小説という意味で共通していますが、中身は正反対です。
『泥棒の息子』にはセックスや暴力がほとんど出てきませんが、前述したとおり『亡き王子のためのハバーナ』は主人公が性に目覚めてゆく過程を中心としているからです。
 しかし、単なるポルノグラフィと一線を画しているのは、豊かな語り口です。

「ぼく」の一人称は、とにかく軽妙で饒舌でユーモラス。「ぼく」の体験も面白いし、親戚・知人・友人も変わり者ばかりで、彼らの巻き起こす事件も楽しい。
 ただし、特に前半は短いエピソードが矢継ぎ早に繰り出されるので、とにかく登場人物が膨大で、とても覚え切れません。ジョルジュ・ペレックの『人生 使用法』には巻末に百頁以上もある人名索引がついているのに、この本には主要人物として八人の名前しかない……。
 こう書くと、固有名詞を覚えることができないという理由で海外文学を敬遠している方は「俺には無理だ!」と考えてしまうかも知れませんが、多くのキャラクターが二度と登場しないか、再登場の際には過去のエピソードに軽く触れられるため、混乱することはないと思います。

 解説によると、フリオ・コルタサルは、イスパノアメリカ文学に欠けているのはユーモアとエロティシズムだと語っているそうです。エロティシズムはともかく、ユーモアに関しては、確かにゲラゲラ笑えるような中南米の小説はすぐに思い浮かばない。
 同じキューバレイナルド・アレナスの『夜になるまえに』も壮絶な自伝で、ところどころユーモアも感じますが、笑いに関してはカブレラ=インファンテに敵いません。近所で起きたバラバラ殺人の顛末を説明しながら、女に挿入する前に果ててしまった話へ脱線するところなんか、抜群のセンスです。
 そういう意味で、日本でももっと評価されてよい作家という気がするのですが……。

 そもそも性愛が主とはいえ、総じてカラッとしているし、針はユーモアの方に傾いているので、エロが苦手な方でも問題なく楽しめると思います(初体験は、三百頁以上も読み進めてから漸く描かれる)。
 例えば、一章の「変容の館」などは、開けっ広げで、ちょっとエッチな貧乏長屋の人々を扱った落語でも聞いているような雰囲気といえばよいでしょうか。
 階段から落ちて苦しんでいると歯のない老婆がやってきて、助けてくれるのかと思ったらズボンからペニスを引き出してこすってきたりとか、大戦中の映画館で日本人、ドイツ人、イタリア人の三国ホモ同盟に囲まれたとか、阿呆らしい話も沢山出てきます。

 また、『我が秘密の生涯』や井原西鶴の『好色一代男』などは恐らく意識せずして当時の風俗を伝える貴重な資料となっていますが、カブレラ=インファンテは性的生活を中心にしながら、フルヘンシオ・バティスタ政権下のハバナを描き出すことを目的のひとつとしています。
 革命前のキューバは、実質的には米国の支配下にあり、富の多くは米国に流れていました。例えば、禁酒法下、金持ちのアメリカ人はハバナで豪遊し、その金はマフィアに流れるなど、いいように食いものにされていたのです。

 とはいえ、貧しいながらも景気は悪くなかったせいか、少年時代のカブレラ=インファンテは、ハリウッド映画に夢中になり、メジャーリーグを目指して野球に打ち込み、「当時の映画に出てくる日本人はたいてい物陰に隠れて敵のアメリカ兵を待ち伏せし、(中略)そのなんとも暗い陰険なイメージ」というように、アメリカの色に染められているように感じます。
 しかし、その後は、バティスタ政権下において猥褻表現などで逮捕されたり活動を禁止されたりしたことにより、革命運動に従事します。キューバ革命成就後は、フィデル・カストロ政権に賛同していたものの、ここでも活動が制限されるなどし軋轢が生じ、やがてはロンドンに移住することになります。
 そして、愛すべきハバナが、みるも無残な都市へと変貌したことを憂い、この作品を書いたそうです。国民の生活水準は革命前に比べ遥かによくなりましたが、カブレラ=インファンテの記憶にあるハバナとは違うものになっていたのでしょう。

 ギュンター・グラスの『ブリキの太鼓』は、自由都市ダンツィヒの激動を描いています。他方、カブレラ=インファンテは、独特のユーモラスな表現を用いて、屈託のないハバナっ子が暮らしていた古き良き時代を再現しました。しかも、話題が政治の方へ流れようとすると「この本ではそんなことを書くつもりはない」と恋愛の話へ戻ってしまいます。そのため、とんでもないできごとも起こらないし、緊迫感は希薄です。
 だからといって、作品の価値が下がるというわけではありません。戦争や革命に揺れる祖国を描くのが高尚な文学で、美しい女性に魅せられた男の性春を描くのが下劣だなんて、今時、小学生でさえ考えないでしょう(カブレラ=インファンテ自身は「女戦士」の章で、歴史を謳った叙事詩に比べ、愛を謳った詩は卑俗で、それ故に愛すと書いているが……)。
 勿論、遠回しにカストロ政権を批判しているという読み方もできます。けれど、そんなことより若き日のカブレラ=インファンテと一緒に、魅力的なラテン系の美女を求めてハバナの町をうろつく方が何倍も有意義です。

 分厚い本は、早く読み終えてしまいたい場合と、最後まで到達するのが惜しい場合がありますが、『亡き王子のためのハバーナ』は明らかに後者に分類されます。就寝前のお楽しみに、毎日少しずつ読み進めるのがお勧めです。

 作家カブレラ=インファンテの基礎となった文学、映画、音楽、演劇、スポーツ、そしてアーティストたちとの刺激的な交流についてもたっぷり語られます。具体的に作品名をあげて議論されるので、若き日の彼が何にどんな影響を受けたか知ることができて、とても楽しい。
 とはいえ、コルタサルの『石蹴り遊び』と異なる点は……。ああ、映画好きで有名な彼が映画館へゆき、本編そっちのけでこんなことやあんなことをしていたなんて、一体誰が考えるでしょうか。どんな名作も、所詮は性欲に敵わないのか……。

『亡き王子のためのハバーナ』ラテンアメリカの文学15、木村榮一訳、集英社、一九八三