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読書感想文(関田 涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『明日に別れの接吻を』ホレス・マッコイ

Kiss Tomorrow Goodbye(1948)Horace McCoy

 ホレス・マッコイは、アメリカよりもフランスで先に評価された作家です。
 実存主義の元祖としてジャン=ポール・サルトルらに絶賛され、アーネスト・ヘミングウェイ、ウィリアム・フォークナー、ジョン・スタインベックらと同列に論じられる存在だったとか。

 また、暗黒小説(ノワール、roman noir)とは第二次世界大戦後、マッコイや『郵便配達は二度ベルを鳴らす』のジェイムズ・M・ケインなどの犯罪小説を翻訳したり、それに影響されたフランス小説がブームになったことから生まれた言葉です。
 マッコイがいかに人気があったかは、例えばジャン=リュック・ゴダールの『メイド・イン・USA』で『明日に別れの接吻を』を読んでいるシーンが出てくることからも分かります。

 マッコイは一九五五年にこの世を去りましたが、それから十四年後、『彼らは廃馬を撃つ』(They Shoot Horses, Don't They?)がシドニー・ポラックによって映画化されました(邦題『ひとりぼっちの青春』)。この映画は大変評判になり、多くの賞を受賞し、今なおファンが多いことで知られています。
 ほぼ忘れられた存在だったマッコイにとっては、二度目の幸運といえます。

「幸運」と書いたわけは、マッコイはサルトルが評価するほどのことはない二流のライターという気がするからです。彼の唯一の手柄は、マラソンダンスという素晴らしい素材を取り上げたことといっては失礼でしょうか。

 ただし、タイトルはセンスがあって、未訳のものでも『No Pockets in a Shroud』とか『I Should Have Stayed Home』とか格好いいですよね。
 それにひきかえ、『They Shoot Horses, Don't They?』の日本版のタイトルは、映画も小説もよくありません。主人公がグロリアという女性を殺すことは冒頭の一行目から分かるのですから、大切なのは動機となります。狂乱のマラソンダンスを終えた主人公が警官に付加疑問文で答えてこそ、時代に踊らされた男の無責任さが伝わってくるのではないでしょうか。
 とはいえ、一読の価値がある小説ですので、復刊され入手しやすくなった今のうちにぜひどうぞ。

 さて、『明日に別れの接吻を』は、フランスで人気が出た後の作品ですから、映画化されたのも早かった(一九五四年、主演ジェイムズ・キャグニー)。ところが、邦訳出版されたのは映画化とは無関係の一九八一年でした。どうして、こんな時期に出したのかは分かりません。
 正直、プロットは滅茶苦茶だし、登場人物は変だし、緊迫感はないし、あちこちツギハギだらけだけど、不思議な魅力を持った小説です。

 一九三〇年代のアメリカ。刑務所を脱走したラルフ・コッターは、ある町に辿り着くや否や強盗事件を起こします。その後、密告によって刑事がやってきます。逮捕されると思いきや、刑事はコッターから金を巻き上げ、見逃してくれたのです。
 警察が腐敗していることを知ったコッターは、町の弁護士、刑事らと組んで、大きなヤマを計画します。
 一方、新宗教に嵌っている富豪の娘と知り合い、心惹かれてゆきますが……。

 コッターは、ファイベータカッパ(大学の成績優秀者の友愛会)のメンバーでもあるインテリであり、冷酷非道な犯罪者でもあります。彼は、ジョン・ディリンジャー、ベビーフェイス・ネルソン、プリティ・ボーイ・フロイド、アルヴィン・カービスらに憧れ、犯罪を繰り返してゆきます。
 全く躊躇せず人を殺し、罪の意識に苛まれることもありません。

 こうした人物を登場させた場合、単なるサイコなモンスターとして扱っても、いかにして異常な人格が形成されたかを描いても、取ってつけた感が否めない。一般人と余りにかけ離れた人物像なだけに、共感を得るのが非常に困難なわけです。
 そもそも、人殺しがなぜいけないかというと、人は他人に殺されたくないからです。いつ殺されるか分からないんじゃ気の休まる暇がありませんから、殺人は罪ということにして「俺もお前を殺さないから、お前も俺を殺さないでくれよ。もし殺したら、お前も捕まって殺されるぞ」としたのです。
 ですから、殺人鬼の心理云々より、箍が外れた人物と、それを取り巻く一般人の社会との関係や対立を描く方が個人的には意味があるような気がします。

 にもかかわらず、コッターは「俺は、犯罪者になった理由を社会のせいにする卑怯者とは違う。生きたいように生きているだけ」と嘯きつつ、最後になって、幼い頃、祖母を殺したことがトラウマになっていることを告白し、おまけに恋人に殺されそうになると情けなくも命乞いまでしてしまいます。
 リアリティがあるともいえますが、ハードボイルドの主人公としては完全に失格です。

 つまり、マッコイは、タフで非情だけど、信念を持った主人公を描くつもりなどさらさらなかったといえます。
 コッターは、学歴をひけらかし、本名を明かしたら吃驚するだろうなんて勿体ぶり、強力な力を持つらしき兄の存在を匂わせるなど、人としての魅力に著しく欠けるキャラクターです。こんな人物がいくら人を殺しても、読者はその理由を知りたくもならないでしょう。

 しかし、『明日に別れの接吻を』の世界では、コッター個人の事情など大した意味を持ちません。コッターらギャングスターよりも、警察や法曹、医師、実業家らの方が質が悪い、っていうか絵に描いたような屑っぷりをみせてくれます。要するに、彼の所属する社会全体が明らかに病んでいるのです。
 それは『彼らは廃馬を撃つ』において、マラソンダンスの参加者より、そうした奇怪な競技を許した社会こそが狂っていると主張したのとよく似ています(いずれも大恐慌時代のアメリカが舞台)。

 ディリンジャーもボニーとクライドも社会の敵として葬り去られましたが、コッターが死ななければならなかった理由はそれとは逆です。彼は、いかれた社会に溶け込んでしまったからこそ抹殺されました(『彼らは廃馬を撃つ』のグロリアは、いやらしい世のなかが嫌になって、自ら死を選択した)。
 仲間や恋人に簡単に裏切られ、いつ何時殺されるか分からない状況において平然と生きてゆけるのは、タフ云々とは別問題です。
 虚構のなかとはいえ、こんな人間が生き残れる場所など存在してはいけないのです。

※:マッコイには、もう一作、映画の原作がある。『黒い街』(The Turning Point)の原作の『Corruption City』だが、これはノベライズであるため、本人はオリジナル小説として認めていなかったそう。

『明日に別れの接吻を』小林宏明訳、ハヤカワミステリ文庫、一九八一