読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『にわとりのジョナサン』ソル・ワインスタイン、ハワード・アルブレヒト

Jonathan Segal Chicken(1973)Sol Weinstein, Howard Albrecht

 いわずもがなですが、リチャード・バックの『かもめのジョナサン』Jonathan Livingston Seagull(1970)のパロディです。
「かもめ」の方は五木寛之の訳で知られており、二〇一四年には、新たな章が加わった「完成版」が刊行されました(※)。
 一方、「にわとり」の訳者は青島幸男直木賞作家には直木賞作家をぶつけた……といいたいところですが、青島が『人間万事塞翁が丙午』で受賞するのは一九八一年。「にわとり」の初版は一九七五年なので、この時点ではそうした意図はなかったはずです。

 ちなみに、今は亡き勁文社は『にわとりのジョナサン』(写真)を一九七五年、一九八三年、一九九五年と、ほぼ十年ごとに再刊しています。
 どうやら、最初の版がそこそこ売れ、味を占めて何度も再刊したらしい。しかし、一九七〇年代ならともかく、十年、二十年後にこんな本がそれほどヒットするとは思えません。まあ、要は訳者の知名度に乗っかった安易な再刊だったんでしょうね。

 原著者のことを何も知らなかったので調べてみると、このコンビは『オッドファーザー』という『ゴッドファーザー』のパロディも書いていて、同じく勁文社から大橋巨泉訳で刊行されています。
 ソル・ワインスタインは、ジェイムズ・ボンドのパロディシリーズも書いていたようです(Israel Bond Oy-Oy-7)。ハワード・アルブレヒトの方は、TVシリーズのライターみたいですね。

『にわとりのジョナサン』は、パロディとして取り立てて出来がよいわけでもないし、ゲラゲラ笑えるわけでもない。はっきりいって、大ベストセラーに便乗した三流小説にすぎません。
 繰り返しますが、七〇年代に読むのならまだしも、二十一世紀になって貴重な時間を費やして読書する意味を少なくとも僕は見出せません。

 にもかかわらず、ここで取り上げるのは、これが少々変わった翻訳だからです。
 本家「かもめ」は「カットした単語もあり、原文にない表現をつけ加えた場所も多々ある」創作翻訳です。
 が、「にわとり」は、それを遥かに超越しています。それは、あらすじからも容易に分かるでしょう。

 ブロイラーのジョナサンは、与えられた餌を食って、やがて人間に食べられるだけの人(鶏)生に疑問を抱き、努力して空を飛べるようになります。が、鶏として相応しくないと仲間から追放され、単身ニューヨークへ向かいます。
 そこで、日本から進出してきたチキンの照り焼き店を潰し、ケンタッキー・チキンの種鶏研究所の非道な実験に憤ります。
 やがて、故郷に帰ったジョナサンは「今の自分たちは神が作りたもうたのではなく、人間どもが品種改良したのだ。先祖を見習い、自由になろう」と仲間たちに説き、養鶏場から解放します。その後、ジョナサンは、再びニューヨークへゆき、研究所のコンピュータに体当たりをして自爆するのです。

 照り焼き、エコノミックアニマル、南京事件など、不自然なくらい日本について言及されます。また、少なく見積もっても一頁にひとつは、日本の時事ネタ、有名人、ことわざ、ギャグなどが盛り込まれています(青島自身が作詞したハナ肇クレイジーキャッツの『遺憾に存じます』の有名なフレーズ「世の中まちがっとる(よ)」も出てくる)。いかにもやりすぎという気がしますが、実をいうと、この程度なら可愛いもの。
 何と「あとがき」には、こんなことが書かれているのです。

「辛辣な風刺をもたらす何かは、やはりニワトリと人間の関係を描くところからでてくるのではあるまいか。原作にはそのへんのところがぜんぜんふれてない」(中略)「そういうわけで、ともかくニワトリと人間という絶好の関係を、積極的に描いてみた」

 ここまでくると、創訳ではなく、完全な創作です。創作部分が何割くらい占めているのか全く分かりませんが、下手をすると、胡桃沢耕史によるウィリアム・S・バロウズの『やわらかい機械』や、富島健夫によるチャールズ・テリー・クライン・ジュニアの『ダモン』みたいなものなのかも知れない……。
 翻訳文学を楽しむ人間は、原著と訳本は似て非なるものと承知しているけれど、さすがにこれはどう評価してよいのか途方に暮れてしまいます。

 尤も、部分的には面白い箇所もあります。
 例えば、「かもめ」は、女がほとんど登場しない男の物語であり、崇高さを強調するためか、セックスが完全に無視されていました。
 それに比べ、にわとりのジョナサンの方は、夢精をして羽がゴワゴワになって飛べなくなったり、性転換した雌鶏に結婚を申し込んだり、トルコ風呂で初体験したりします。この辺りはパロディとして十分機能していると思います。

 また、この小説の白眉はオチにあります。
 英雄になって天国へいったジョナサンは、あっさりと蒸し焼きにされてキリストや釈迦やマホメットに食われてしまうのです。
「禅だ、精神世界だのといったって、カモメはカモメ、ニワトリはニワトリじゃねえか」といってる気がして、俗物の僕の胸はスカッとします。
 まあ、実際は「一体、誰が書いたんだ?」というモヤモヤが残るので、余り気持ちよくはないのですけど……。

※:ついでに『かもめのジョナサン 完成版』も読んでみた。従来までの三章に、新たな四章が加わったのだが、残念ながら完全な蛇足だった。いや、そもそも『かもめのジョナサン』は一章が素晴らしく、二、三章は不要だったのに、そこへさらに説教臭いものがついてきたという感じか。

『にわとりのジョナサン』青島幸男訳、ケイブンシャ文庫、一九八三

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