読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『イリワッカー』ピーター・ケアリー

Illywhacker(1985)Peter Carey

 詐欺師やほら吹きが小説に頻繁に登場するのは、作家自身が嘘つきだからです。
 作家は、社会的地位が高いとか、物知りだとか、才能があるなどと考えてしまいがちですが、実際は、上手に嘘をつくという特殊技能を持つだけの人間のクズに過ぎません。
 ほらを吹く能力が文学以外に向かえば、人生の勝者になることができるかも知れませんが、そうならないところがダメ人間たる所以でもあり、憎めない部分だったりもするわけです……。

 さて、タイトルの『イリワッカー』(写真)は、「本職のペテン師。地方興行に出没して稼ぐことが多い」とのこと。固有名詞でもないのに、オックスフォード英語辞典にも掲載されていないのは、オーストラリアの口語だからでしょう。
 この小説の語り手はイリワッカーですが、「実は国民全員、つまりオーストラリアという国全体がイリワッカーだぜ」っていう、スケールが大きいんだか、そうでもないんだか、よく分からないお話です。
 早速、あらすじから紹介します。

 自称百三十九歳のハーバート・バジャリーが昔語りを始めます。
第一部
 一九一九年、三十三歳のハーバートは、飛行機乗りとして、ジーロングに現れます。彼は、ここで国産の飛行機を製作しようとします。一方で、ハーバートはフォードのセールスマンでもあるのですが、できることならオーストラリア製の自動車を売りたいと考えています。
 しかし、人々の理解を得ることができず(飛行機は英国から輸入し、車は信頼できるアメ車でよいと考えている)、計画は暗礁に乗り上げます。
 私生活の方では、若く美しい妻とふたりの子どもに恵まれますが、ある日、妻は夫と子どもを残し、飛行機で去っていってしまいます。
第二部
 一九三一年、失業したハーバートは、ふたりの子(兄妹)を連れキャンプ生活を送っていました。そこへリーアという女性が現れます。
 リーアは旅回りのダンサーをしながら、共産党員の夫に仕送りをしています。リーアに魅かれたハーバートは、彼女と一座を結成し、各地を転々とします。
 しかし、そうした生活も、やがて終わりを告げます。リーアは足を失った夫の下に戻り、ハーバートは愛する娘を亡くし、その上、養父だった中国人の帳面を盗んだ罪で刑務所に入れられてしまいます。
第三部
 ハーバートの息子チャールズ、そして、孫のヒサオが物語の中心となります。
 チャールズは、動物に好かれるという特技を生かし、ペットショップを経営し成功します。しかし、不器用な彼は、悲劇的な最期を迎えます。
 一方、チャールズの三男であるヒサオは、合理的な都会の青年。建築家志望だったものの、ビジネスマンとしての才能を発揮し、父のペットショップを立て直します。

 パトリック・ホワイトの『台風の目』の際にも書きましたが、オーストラリアは、かつては宗主国イギリスとの結びつきが強く、その後、次第にアメリカ、そしてアジア〔特に中国や日本(※1)〕との関係を深めてゆきました。
 それを象徴するが如く、本書は三部構成であり、また、ハーバート、チャールズ、ヒサオというバジャリー家三世代の物語ともなっています。
 ハーバートは国粋主義者。チャールズは自分のペットショップでオーストラリア産の動物のみを扱いたいと思ってるし、国産車にも乗っているけれど、実は米国の資本に頼っています。また、ヒサオは、日本へゆき、ミツビシの融資を取りつけます。
 それらは、オーストラリアと英・米・アジアとの関係を表しているように読めます(ヒサオは別に日本人ってわけではなく、アジア人っぽい顔立ちってだけ。また、父を亡くしたハーバート少年は中国人の養子になったことがあるし、チャールズのペットショップには在留許可未定の中国人が潜んでいる)。

 しかし、小説をそんな風に捉え、分かった気になってしまうほど馬鹿げたことはありません。
 そうした諷刺は飽くまで表面的なものに過ぎず、やはり、ここは長大な物語に身を任せるのが先決でしょう。
 イサベル・アジェンデの『精霊たちの家』が三世代の女性たちの物語なら、こちらは何とも情けない三世代の男たちが主役。百三十九年に亘る壮大なほら話は、束の間、退屈な日常を忘れさせてくれます。

 尤も、ハーバートは嘘つきですが、読者を騙してやろうと手ぐすね引いて待っている「信頼できない語り手」ではありません。
「オーストラリアの歴史は、だいたいどこを見ても、なかなかに趣がある。(中略)あっぱれな嘘の総体と言いたくなる。しかも、斬新な嘘であって、黴くさい古物ではない。まさに波瀾万丈。いくらでも辻褄の合わないことがある。それでいてすべて事実。これでもって実話なのだ」
 これは、マーク・トウェインの紀行『赤道に沿って』からのエピグラフですが、この物語に正にぴったりなのです。

 ハーバートは、嘘つきなのに真面目で、誠実なのにインチキ臭いという不思議な魅力があります。おまけに彼の語り口は、饒舌なのに控えめで、間怠っこしいのに分かりにくくない(※2)。
 そのヘンテコなペースに乗せられ、ニ段組み上下巻がとても短く感じます。

 また、彼の周囲の人間たちも、変わり者が揃っています。オーストラリア人というと、陽気で大雑把というイメージを持ってしまうのですが、ハーバートの目を通すと、どいつもこいつも胡散臭く、心の底が読めません。
 例えば、妻であるフィービーは、同性の恋人がいたり、堕胎を選択したり、突然家族を捨てて去っていったりしますし、彼女の父親も、まるで自殺を選んだかの如くハーバートの蛇に噛まれ命を落とします。また、医師を目指していたリーアも、突然踊り子に身を窶し、地方巡業に出るし、チャールズの妻のエマはペットの檻のなかで生活します。

 どうやら、彼らは、自分のなかに大いなる嘘を抱えて生きているようです。
 それがオーストラリア人の本性にかかわるのかどうかは分かりませんが、少なくとも、小説の登場人物としては非常に魅力的といえます。現実とは異なり、虚構のなかでは「嘘つき」「お喋り」「変人」に悪い人間はいないからです。

 国の歴史とは、要するに、そこで暮す人々の歴史を積み重ねたものです。
 オーストラリアは、欧米やアジアからの移民によって形作られ、しかも、まだ歴史が浅いため、よい意味で混沌としています。行動原理も展開も全く読めず、それがこの小説の面白さの源になっているのです。
 先がみえてしまう虚構ほど詰まらないものはありませんが、『イリワッカー』に関しては、その心配は無用です。ここには、南米やアフリカのマジックリアリズム小説にも決して負けない物語やキャラクターの力があるからです。

 そして、何より好感が持てるのは、彼らがやけに楽しそうなこと。
 妻に去られ、幼い娘を亡くすハーバートや、母親の愛情を得られないチャールズなど泣かせるエピソードもありますが、総じて楽天的なのが救いです。
 それはオーストラリアという若い国の持つパワーによるのかも知れませんし、百三十九歳の老人の超人的な若々しさのせいかも知れません。
 思いっ切り煙に巻かれたその向こうにみえる妙に明るい光。それは羨ましくもあり、懐かしくもある未来なのでしょう。

※1:ケアリーは『Wrong about Japan: A Father's Journey with His Son』という日本のオタク文化体験記も書いている。

※2:「おどおどしながら喧嘩腰で、自信たっぷりに口ごもり、賞められるとめそめそして、黙っていればいいときに減らず口をたたいた」。これは、ハーバートによる息子チャールズの描写である。捉えどころがない点は、親子でよく似てている。


『イリワッカー』〈上〉〈下〉小川高義訳、白水社、一九九五

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