読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『殺人者の健康法』アメリー・ノートン

Hygiène de l'assassin(1992)Amélie Nothomb

 フィリップ・ソレルスの『』は、フランス語のテクストに漢字が混じっていると書きましたが、そういえば僕は、アメリー・ノートンの署名入り『殺人者の健康法』を持っています(写真)。

 ノートンは、一九九六年に初めての邦訳本である『殺人者の健康法』が出版された際に来日し、東京日仏学院(現 アンスティチュ・フランセ東京)で「Le plaisir d'écriture(書くことの喜び)」と題した講演を行ないました。サインはそのときのもので、フランス語の「avec amitié!」と並んで、漢字で「雨理」と大きく署名されているのです(「雨里」と書くこともあるそう。ちなみに、日本で生活した幼少期を描いた『チューブな形而上学』(Métaphysique des tubes)の英語版のタイトルは『The Character of Rain』)。
 日本で生まれ、日本の商社に通訳として勤めていたこともある彼女ならではの茶目っ気のあるサインで、とても気に入っています。

 ……などと書くと、恰も目の前で署名してもらったみたいですが、実はこの本、古書店の百円均一ワゴンでみつけました。彼女の書いた漢字はやけにでかいし、カリグラフィーとしても幼稚園児レベルなので、子どもの落書きと思われたのかも知れません。
 ま、特に価値はないでしょうけど、僕にとっては十分に「どひゃっほう!」本です。

 さて、『殺人者の健康法』はノートンが二十五歳のときに書いた処女長編です。
 若い女性の作品だからといって、可愛らしいものを想像するところっと騙されます。『午後四時の男』同様、グロテスクな老人が主人公の、悪意に満ちた小説です。

 ノーベル文学賞受賞者である八十三歳の大作家プレテクスタ・タシュ。超肥満体の彼は、若い頃から誰ともかかわらず、ひたすら小説だけを書き続けました。
 湾岸戦争の直前、エルゼンヴェイブェルプラーツ症候群という難病を患っていたタシュの死期が近いことが発表されます。その後、ジャーナリストたちが次々にインタビューに訪れます。しかし、彼らはタシュに木っ端微塵に論破され、這々の体で逃げ帰ってゆくのです。
 そんなとき、若い女性の記者ニーナが現れます。彼女との対話によって、タシュの未完の小説『殺人者の健康法★』(以下、本書と区別するため、作中の書籍の方には★をつける)に関する謎が明らかになってゆきます。

 老作家へのインタビューがメインになるとはいえ、同じベルギー人であるメイ・サートンの『ミセス・スティーヴンズは人魚の歌を聞く』とは狙いが全く異なります。
 前半の読みどころは、エリートぶった傲慢な若き記者どもを、異様な人生を送ってきた偏屈な老人があの手この手でやっつけるところ。作家のインタビューなので取っ掛かりは文学論ですが、深く掘り下げられることなく精々キーワードの提示程度で、大抵は詭弁、揚げ足取り、論点ずらし、反語などに終始します。
 タシュはインタビューを嫌がるふりをしながら、未熟な記者が困り果て、涙を流し、反吐を吐くのを観察するのが楽しみなのです。

 また、全編ほぼ会話文なので、議論がテンポよく進みます。
 これは、タシュの頭の回転の速さを強調するための手法ではないでしょうか。意地悪をするためには愚鈍では駄目ですから。

 ところが、三人の男に勝利した後やってきた女性記者のニーナは、今までの相手とはまるで違っていました。彼女は、真っ向からタシュに戦いを挑みます。インタビューの終わりに参ったといった方が、相手の足元に這いつくばるという賭けまでするのです。
 とはいえ、この展開は、タシュにとってもってこいでした。なぜなら、彼は二十四年前に執筆をやめて以降、ほとんど外出もせず飽食の日々を過ごしており、退屈しきっていたからです。久しぶりの手応えのある相手に心も躍ったはずです。

 ここまでの流れはごく自然で、処女作とは思えないほど、きちんと計算されています。読者は、悪賢い老作家と聡明な若き女性記者の対決を楽しみにするはずです。
 実際、舌戦は苛烈で、ハラハラのしどおしです。ノートンは作家でもあり女性でもあるので、両者の立場をいったりきたりしているのがよく分かります(これも伏線になっている)。

 しかし、議論半ばで、ノートンは意外な方向へ舵を切ります。ニーナはインタビューをするふりをして、タシュの抱える過去の秘密に容赦なく迫ってゆくのです。
 タシュは、赤子の頃、両親を亡くし、有力な貴族である伯父に引き取られました。その後、伯父夫婦には娘レオポルディーヌが生まれ、ふたりは兄妹のように育てられます。
 やがて、タシュは、思春期になると人間は醜くなるという考えに取り憑かれ、成長を止めるために独自の健康法をレオポルディーヌとともに実践します。しかし、その思想は最悪の事態を招いてしまいます。初潮を迎えたレオポルディーヌは「一方が思春期の若者に育ったら、他方がそれを殺す」という契約どおりに、タシュに殺めてもらうのです。

 ニーナは、上記のできごとが、ほぼ脚色なしに『殺人者の健康法★』に書かれていることを指摘します(未完だが、出版はされている)。
 そして、今まで誰もそのことに気づかなかったのは『殺人者の健康法★』の主人公が「美貌の青年で、彼と醜く太ったタシュを結びつけることなど不可能だった(若き日のタシュは痩身で美しかった)」からという推理を披露します。
 少し弱いと思われるかも知れませんけれど、用意周到に張られた伏線のお陰でミステリーとしても上等ですし、ラストで「ニーナがタシュと同化し、彼の犯行をなぞるように殺人を犯す」箇所などはサイコホラーのようでゾッとさせられます。

 ところで、タシュの犯行がバレなかったのには、もうひとつ理由があります。
 タシュの作品は誰にも読まれないがために評価され、作者本人も記者もそれを承知していると作中で何度も繰り返されます。当然、インタビューにくる者はタシュの小説を読んでおらず、唯一、ニーナだけが全二十二作を読破しているものの、タシュはそれを信じることができません。
 要するに「『殺人者の健康法★』は自伝的小説だと思われていなかったという以前に、全く読まれていなかった」という皮肉を含ませているわけです(勿論、この場合の「読まれない」は、メタファーだ何だと理屈をつけ、正しく解釈してもらえないという意味)。

 かつて難解な文学は、かっこつけて読んだふりをするためのものでした。ところが、最近では、そんなポーズすら必要なくなっているように思えます。文学を嗜むなんて何の意味もないどころか、却って時代遅れと馬鹿にされる始末。いやはや何とも……。

『殺人者の健康法』柴田都志子訳、文藝春秋、一九九六

→『午後四時の男アメリー・ノートン

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