読書感想文(関田 涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『大いなる奥地』ジョアン・ギマランエス=ローザ

Grande Sertão: Veredas(1956)João Guimarães Rosa

 アルフレート・デーブリーンの『ベルリン・アレクサンダー広場』がドイツ版『ユリシーズ』なら、ジョアン・ギマランエス=ローザの『大いなる奥地』はブラジル版『ユリシーズ』です(デーブリーンも、ギマランエス=ローザも医師)。
 といっても『大いなる奥地』の場合、都市小説という意味ではなく、数多くの挿話により成り立っている点がそういわせているのでしょう。そのため、ブラジル版『オデュッセイア』と呼んだ方が正確かも知れません。
 尤も、解説の鼓直によると、利用可能な言語的手段を縱橫に操るギマランエス=ローザの文章は難解晦渋で『フィネガンズ・ウェイク』との類似性が想定されるそうです。
 しかし、読者にとって、そんなことは大して重要ではありません。ほとんど翻訳の進んでいないギマランエス=ローザにあって、代表作が読めるだけでもありがたいのですから。

 ちなみに「筑摩世界文学体系」は脅威の三段組(写真)で、『大いなる奥地』は約三百頁あります。一頁当たりの文字数は文庫本の約三倍ですから、文庫なら九百頁に相当します。さらに、何と章立ては一切ありません(改行も少ない)。
 そう聞いて「やったー。たっぷり楽しめるぞ」と喜ぶ人もいるでしょうし、「うひゃー。読み切るのに一体どれくらいかかるやら……」とうんざりする人もいるでしょう。僕は、貧乏かつ読書以外楽しみがないので、この本は正にお宝です。古書価格は安く、逆に内容は濃密。一冊あれば、相当長い間、心を潤してくれます。
 なお、同じブラジルの作家ディナー・S・ケイロスの『母なる奥地』とは邦題が似ていて間違えやすいので、購入される際はご注意ください。

 ブラジル北東部のセルタンと呼ばれる暑く乾燥した地域で、野盗の頭目をしていたリオバルドという男が、自らの過去を物語ります。
 母親の死で天涯孤独になったこと、名づけ親が実の父だったこと、美しい少年との出会い、野盗の一員になったこと、仲間とともに裏切り者を追い詰めたこと、首領となり野盗を率いたことなどなど……。

 最初のうちは、話があちこちに飛ぶ上、主人公と関係の薄いエピソードが混ざるため、ついてゆくのが大変です。しかし、すぐに最も太い筋がみつかります。
 ひとつは、偉大なる総首領ジョカ・ラミロを裏切ったエルモジェネスとリカルダンを捜し出し、復讐を果たすことです。その過程で、リオバルドは自らが首領となり、荒くれ者どもを束ねるようになります。
 もうひとつは、ジョカ・ラミロの子であるディアドリンとの友情です。野盗になったのも、復讐に参加したのも彼がいたからにほかなりません。

 ドイツ文学であれば教養小説に分類されるかも知れませんが、南米文学だけあって退屈とは無縁です。
 主人公が奥地の野盗なので、粗野で血腥い話が続き、ヤクザやマフィアの抗争といった雰囲気もあるため全く飽きません。
 それに加えて、「餓える寸前、猿を捕まえて食う。しかし、それが猿ではなく、裸でうろついていた知恵遅れの男だと途中で気づく」といった、とんでもないエピソードが含まれているところも興味深い。
 このように「○○だと思っていたら、実は●●だった」なんてのが多いのですが、陳腐というよりも大時代な娯楽小説のようで僕は好きです。

 筋だけ追っても、あるいは豊富な挿話に目を向けても十分に楽しめます。けれど、『大いなる奥地』の真の価値は、その語りにあります。
 前述したようにギマランエス=ローザは、この小説で大いなる言語実験を試みています。方言、古語、造語、オノマトペを駆使し、頭韻、語順転換といった手段を用い、多彩かつ長大なエピソードを綴っていったのです。
 その懲りようは、ポルトガル語で書かれているにもかかわらず、ポルトガル語への翻訳が必要といわれたほどです。

 それをどこまで日本語として再現できたのか、僕には判断がつきません。ただ、少なくとも難解にはほど遠く、違和感なくスラスラと読み進めることができます。これがギマランエス=ローザの意図に反していないとしたら、とても優れた翻訳といえるのではないでしょうか。

 さらに、主人公の語りには、大きな仕掛けがあります。
 というのも、構造としては一人称による回想にもかかわらず、リオバルドは、ディアドリンにまつわる重大な事実を最後まで秘密にしているからです。
 それについて、リオバルドは「さよう、私は伏せておいたのだ。お客人(聞き手)、お許し戴きたいのだが、この重大な秘密を、私が知ったのと同じ時点で、あなたにも知ってほしいと思ったのである」と語ります。一応、筋は通っていますが、長い間行動をともにしていたリオバルドを含めた野盗全員がそれに気づいていなかったのは明らかに不自然です。
 つまり、彼は秘密に気づいていなかったふりをしている、典型的な「信頼できない語り手」に相違ありません。

 それでは、リオバルドはなぜ、知らないふりをしたのでしょうか。
 以下、なるべくネタバレにならないよう記述してみます。

 実をいうと、この物語はディアドリンの仇討ちが中心となっています。そのなかでリオバルドは、飽くまで助っ人に過ぎません。事実、リオバルド自身は、エルモジェネスに恨みがないことを告白しています。
 それでも手助けをするのは、ディアドリンのことを何よりも大切に思っているから……ではないと僕は思います。

 リオバルドは、復讐を達成することによって偉大なる首領としての名声を得たいと考えています。はっきりいってしまえば、ディアドリンはそのための道具にすぎません。
 一方、ディアドリンはリオバルドに好意を寄せています。リオバルドの婚約者に嫉妬したり、首領として傲慢になったリオバルドをたしなめたりするのは、彼のことを愛しているからです。
 その気持ちを利用しつつ、深い関係に陥らないようにするため、リオバルドはディアドリンの秘密に気づかないふりをしたのです。

 何と打算的で、さもしい男でしょうか。
 しかも、悲劇的な最期を迎えるディアドリンと対照的に、リオバルドは仇討ちの後、野盗を引退し、名づけ親の遺産を手に入れ、美しい女性と結婚し、平穏に歳を重ね、勿体ぶって思い出話をしたりするのです。
 追憶だって、自分に都合よく脚色しているに決まっています。

 そんなリオバルドも恐れているものがあり、それが悪魔の存在です。
 奥地では何か大きなことを成し遂げる際、悪魔の力を借りるという考え方が存在します。野盗の首領となったリオバルドは、威厳を示すため、また正しい選択をするため、悪魔の力を利用します。しかし、欧州の悪魔と異なり、別に契約を交わすわけではないため、魂を売ってしまったのかどうか、常に自分に問い続ける必要があるのです。

 その点についても、自らを正当化する仕掛けがきちんと用意されています。物語のはじめから、しつこいくらい持ち出される「わが友ケレメン」という人物がそれです。
 彼の名をやたらと挙げておきながら、ケレメンが登場するのはラストの一頁。しかも、そこでのケレメンの役割は「リオバルドは悪魔に魂を売り渡していない」と証言するだけなのです。

 長い長いモノローグは、最後にきて欺瞞に満ちた一代記へと堕ちてゆきます。
 最初に『オデュッセイア』の話をしましたが、誰もが崇拝する英雄など最早どこにもおらず、あらゆるものを受け入れる大いなる奥地も既に過去のものになった、ということでしょうか。
 文学的にも、莫大な枚数を使って小粒な人物を描くように変わってしまったことをギマランエス=ローザは嘆いているのかも知れません。

 なお、月報にはギマランエス=ローザ自身の奥床しすぎるエピソードが掲載されており、必見です。購入する際は月報の有無を確認されるとよろしいでしょう。

『筑摩世界文学大系83』中川敏訳、筑摩書房、一九七六