読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『ジェラルドのパーティ』ロバート・クーヴァー

Gerald's Party(1986)Robert Coover

 リチャード・ブローティガンにはかつてミステリー、ホラー、ウエスタン、ハードボイルドといった異なる形式を用いて連続して長編小説を発表していた時期がありました。
 ロバート・クーヴァーは、いわばそれをずっとやっている作家です。勿論、単純なものではなく、実験的なパロディ小説で、利用しているのもウエスタン、ハードボイルド、ポルノグラフィ、童話と幅広い。

『ジェラルドのパーティ』(写真)は、帯に「PPM(ポストモダン・ポルノ・ミステリー)の最高峰」などと書かれていることから分かるとおり、ミステリー小説のパロディです。
 マリオ・バルガス=リョサの『誰がパロミノ・モレーロを殺したか』の感想で、「難解かつ実験的な作風の作家が、多くの読者を獲得するために大衆小説の手法を借りることはよくあります」と記載しましたが、これもその一種でしょう。
 一般的なミステリーファンの守備範囲からは外れるかも知れませんけど、マニアを目指すのなら押さえておくべき作品です。

 ジェラルドが主催するホームパーティの最中、若い女優ロスが死体で発見されます。すぐに刑事がやってきて検死が行なわれます。
 その後、ロスの夫ロジャーは刑事に殴り殺され、テイニアという画家が浴槽で自殺し、ジェラルドの親友のヴィックは銃で撃たれます。それでも、パーティは続けられるのです。

 一夜のパーティの間に殺人事件が起こり、客たちは現場を去ることができないという設定ですから、ミステリー的には典型的なクローズドサークルとなります。
 とはいっても、主人公のジェラルドは苗字も年齢も職業もどこに住んでいるかも不明ですし、招待客はジェラルドが招いていない者も含めると七、八十人はいるらしい。おまけに、彼らの情報は極めて断片的、かつ時間が経つに連れ新しい客がどんどん増えてゆくため、ぼけっとしていると誰が誰やら区別がつかなくなります。

 ジェラルドが客たちと交わす会話から、アリバイや動機など推理に必須の情報が得られると思ったら大間違い。殺人事件のことはときどき思い出される程度で、誰も彼もが些末な問題に掛り切りになってしまうのです。
 一応、テイニアの描いた絵が傷つけられ、ジェラルドの息子の玩具の兵隊の首がなくなり、ベッドのシーツに血がついていたといった手掛かりは提示されますが、そこから謎を解くことなんか、とてもできないでしょう。

 終盤に勿体ぶって披露される警視正パーデュの謎解きも、胎児の復讐なんて例を出した時点で眉を顰めたくなります。案の定、推理は観念的で意味が分からず、犯人も全く納得できません。
 推理に自信のある方は挑戦してみるのも一興……とはいえ、当てずっぽう以外ではまず無理だと思います(犯人の名は「あとがき」に書かれているので先にみないように注意)。
 このように、推理小説の体裁をとりながら中身はまるで別ものです。それでは読者は一体、どこを目指して読み進めればよいのでしょうか。

 ひとつは、ブラックでエロティックなスラップスティックとしての読み方です。
 ジェラルドのホームパーティは、文化人ばかりが集まっているにもかかわらず上品さとはほど遠い。泥酔し、家中を食べもの、酒、血、糞尿で汚し、老いも若きも盛りのついたが如き乱痴気騒ぎを繰り広げます。
 さらに、パーデュの検死も、死体のおっぱいを剥き出しにしたり、スカートのなかに頭を突っ込んだり、ショーツを切り取ったりと明らかにヘンテコです。
 そもそも人が何人も死んでいるのに、当然のようにパーティが続けられること自体異常極まりなく、ブラックユーモアでなければ到底調理できません。

 また、叙法にも特徴があります。
 例えば、ジェラルドがAと会話しているところに別の人物が割り込んできたり、近くで喧嘩をしているBとCの描写に移行したりするのです。
 この狙いは、ひとつの空間において、多くの人が勝手に行動している様子を表現することにあるような気がします。
 登場人物の多くが舞台監督、俳優、裏方、演劇評論家など芝居の関係者であること、実際、客たちによって芝居が行なわれること、三一致の法則に沿っていること、これみよがしな科白、誇張された感情表現、大袈裟な振る舞いなどリアリティからはほど遠い場面が続くことから、クーヴァーが演劇を意識しているのは間違いないでしょう。

 しかし、上述のような光景は現実のパーティでよくみられるものの、演劇や映画で再現するのは難しい。例えば、平田オリザの同時多発会話では、すべての科白を聞き取ることができません。
 一方、小説(ないしレーゼドラマ)であれば、別々のできごとを同時進行させられます。誰が誰に向かって発したのか分からない科白を羅列されても、読者は時の流れを止めてじっくり考えることができますから。
 尤も、俗物や酔客が多いため、話の内容も行動も支離滅裂なのが本末転倒……というか、さらにおかしさを醸し出していますが……。

 さらに、恋愛小説としての側面も見逃せません。
 殺人現場で続けられるパーティで、参加者が話題にするのは主として、亡くなったロスのことです。女優としては三流ながら、数多の男性を惹きつける不思議な魅力を持った女性の存在は、死によってより鮮明になります。
 幕が開いたとき、ロスが既に死んでいる理由も、彼女が男たちの回想のなかだけに存在すべきだからでしょう。

 主人公のジェラルドは、中年のプレーボーイで、このパーティでもアリスンという人妻を狙っているものの、なかなか上手くゆきません。アリスンと間違え、暗闇でヴィックの娘に挿入してみたり、妻とセックスしたりとある意味羨ましい立場ですが、本人に満たされている様子はない。
 かっこよく決まらないのは、現実の自分と理想の自分との間に大きなずれが生じているからかも知れません。誰しも年齢を重ねると、そのギャップに苦しむものです。

 そんな彼が今、すがっているのはロスとの情事の思い出です。
 それは決してスマートでも美しくもない、寧ろ滑稽なプレイですが、彼のなかで美化され何よりも甘美な記憶と化しています。
 勿論、そう感じているのはジェラルドのみではなく、ロスと関係のあった男たちは皆、似たような感慨に耽っているのです。
 馬鹿馬鹿しいとはいえ、彼らの気持ちはよく分かります。惨めだと思いつつ、過去の栄光にしがみつきたくなるのが男ってものではないでしょうか。
 ところが、宴の後、夢うつつのジェラルドはとんでもない目に遭います。喧噪の余韻にしみじみ浸るなんて具合にはいかないのが、さらに哀れを誘います。

『ジェラルドのパーティ』は、様々な要素が詰め込まれており、どこに注目して読むかによって大きく印象が変わってしまうタイプの小説だけに、とりとめのない感想になってしまいました。
「とどのつまり、人生は芝居だ!」「我々は常に演技をしているのだ」なんて具合にまとめられなくもないのですが、そうすると何でもありになってしまうので、この辺でやめておきます。

 最後に、内容とは関係のない話を少し。
 この本は一九九九年の刊行で、本体価格が三千五百円でした。同年に同出版社から刊行されたデイヴィッド・フォスター・ウォレスの『ヴィトゲンシュタインの箒』は本体価格が三千八百円です(こちらは四百頁強)。いずれも、大手の出版社、本のボリュームからすると少々高価という印象は否めません。
 刷部数や翻訳の手間、二段組みであることを考えるとやむを得ないのですが、普通の人はそこまで考えず、ただ「高い」としか感じないでしょう。そのため、書店でたまたま見掛けて「作品名も作家名も知らないけど面白そうだから買ってみよう」と思っても、値段をみて断念してしまう可能性が高いといえます(かなり難解な小説なので、価格を上げて興味本位で手にする人を排除しているといえなくもないが……)。
 ちなみに、同年・同出版社から発行された村上春樹の『スプートニクの恋人』は本体価格千六百円と、半分以下で購入できました。

 一方、安価な文庫本における海外文学のラインナップは、どの出版社もエンタメ以外は古典や名作が中心です。
 はっきりいって、それらは初心者が読んで面白いと感じるような代物ではありません。本屋でよく見掛けるからと『魔の山』や『カラマーゾフの兄弟』に手を出し、二度と海外文学を読まなくなってしまう人だっているのではないでしょうか。日本文学に当て嵌めると、恋愛漫画のノベライズを読んで「小説って面白い!」と感じた少女が、次に埴谷雄高の『死霊』を手にしてしまうみたいなものです。

 このままだと海外文学は、ベストセラーや映画の原作を除くと、専門書のように研究者や文学部の学生、高額でも購入するごく少数のマニアだけのものになってしまい兼ねません。
 衰退しつつある分野全般にいえることですが、とにかく若い人を育てなければ未来はみえない。どうにかしたいけれど、よく知らないおっさんがブログで「この本、面白いよ」などと書いたところで、そもそも小説に興味のない人に届かないわけで……。
 かくなる上は、村上春樹柴田元幸くらい影響力のある翻訳家が沢山現れることを期待するしかないかなあ、と本気で考えています。
 とはいえ、「本を読むのって、オシャレで、頭よさそう!」とすら思われない時代になりつつあるような気もして不気味ではありますが……。

『ジェラルドのパーティ』越川芳明訳、講談社、一九九九

→『ユニヴァーサル野球協会ロバート・クーヴァー

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