読書感想文(関田 涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『アマゾンの皇帝』マルシオ・ソウザ

Galvez, Imperador do Acre(1976)Márcio Souza

 ポルトガル語圏のブラジルは「ラテンアメリカ文学」という括りの場合は仲間に入れてもらえますが、「イスパノアメリカ文学」には含まれません(同様にフランス語圏、オランダ語圏、英語圏の国々も外れる)。
 そのせいか、ブラジル文学は、『大いなる奥地』の
ジョアン・ギマランエス=ローザ、マシャード・ジ・アシス、パウロ・コエーリョ、『悪魔の島』のディナー・S・ケイロスなど日本でも人気の作家がいるものの、全体的にはややマイナーな印象があります(『熱帯雨林の彼方へ』はブラジルが舞台だが、著者のカレン・テイ・ヤマシタは日系アメリカ人で、英語によって書かれている)。

 サッカーとは異なり、文学においてはアルゼンチンに大きく水を空けられているのが現実でしょう。

『アマゾンの皇帝』の作者マルシオ・ソウザも、翻訳されたのはこの一冊のみ。ネットで検索するとサッカー選手(ラフィーニャ)の方ばかりが引っかかり、英語版のWikipediaをみても、説明文はたった一行しか書かれていません。
 著作の数は結構多い(小説より戯曲が多い)のですが、これ以後、話題になったものはなく、今後、新たに翻訳される見込みはなさそうです。あらすじを読む限り『Mad Maria』(一九八〇)は、面白そうなので、ぜひ読んでみたいんですが……。

 さて、『アマゾンの皇帝』の原題は「ガルベス、アクレの皇帝」です。といっても、「ガルベス」「アクレ」といった固有名詞には馴染みがないと思いますので、背景を簡単に説明しておきます。

 発明家チャールズ・グッドイヤー(タイヤメーカーとは無関係)の加硫ゴムの発見によって、十九世紀末のアマゾン川流域は大々的なゴムブームに沸き返っていました。アマゾンの特産であるパラゴムノキを求め、一攫千金を狙う人々がドッと押し寄せたのです。しかし、ゴムはブラジルに莫大な富を齎すとともに、数々の争いごとも巻き起こしました。
 良質なゴムの名産地アクレは、ボリビア、ペルーとの国境に近く、関税や国境線を巡って紛争が絶えませんでした(利権争いには米国や英国も絡んでいる)。そこに現れたのは、スペイン人ジャーナリスト、ルイス・ガルベス(Luis Gálvez Rodríguez de Arias)。何と、彼は、アクレに独立国を建設し、大統領となったのです。

 こうした史実を元に、物語は組み立てられます。
 アマゾン川河口の街ベレンボリビアの総領事と知り合ったガルベスは、彼からアクレに関する米国の書類を盗み出します。しかし、そのせいでベレンを追われ、マナウス、さらにはアクレへとアマゾニアを遡ってゆくことになります。
 その途中、アマゾナス州知事と知り合ったガルベスは、五万ポンドの報酬で、ボリビア統治下のアクレを征服し、国家を建設し、国際的認知を得る契約を交わします。首尾よく独立できた後は、ブラジルに併合を要請するという筋書きです。ブラジルが関与していることをカムフラージュするため、首謀者としてスペイン人のガルベスはうってつけだったのです。
 革命は苦もなく成功しますが、国家の寿命は長くありませんでした。

 形式としてはメタフィクションになるでしょう。
 ブラジル人の「わたし」(ソウザ自身?)がパリの古書店でガルベスの手記を入手し、それを自国に持ち帰って出版したという体裁。ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』のようなパターンなのですが、大きく異なるのは、ガルベスの手記にときどき「わたし」が割り込んでくることです(※)。

 そもそもガルベス自身、典型的な「信頼できない語り手」です。彼の手記がデタラメであることは、読み始めてすぐに分かります(ガルベスは、とにかく女にもてまくる。人妻や処女や女優はいうに及ばず、シスターや王女でさえ、簡単に股を開いてしまう)。
 それだけなら、単なる「ほら話」で済むのですが、ガルベスの嘘を暴こうとする「わたし」までが、とんでもなく嘘臭いところが曲者。そのため、一体どこまでが虚構で、どこまでが真実なのか分からない混沌としたテクストとなっているのです。
 勿論、その嘘は、歴史的事実と異なるという意味ではなく、フィクションとしての整合性の問題です。要は、作者にどこまでリアリティを求める気があるのかということですが……。

 その辺が全く掴めないまま、物語は進行します。登場人物も、彼らが巻き起こす事件も、真面目なんだか、ただの冗談なのか、さっぱり分かりません。第二の語り手である「わたし」を含め、誰ひとり信用できず、途方に暮れることもしばしば。

 いわずもがなのことですが、これが、この小説の最大の収穫です。
「作品を重層的にしている」といった表現も可能ですが、実際のところ、読者を翻弄し、煙に巻くことを楽しんでいる雰囲気に満ち満ちていて、「もう、思う存分やってちょーだい」という気になるんですね。

「わたし」は、ガルベスが自らの偉大さを喧伝するためにでっちあげた人物かも知れない、と訳者は書いていますが、普通に読めば、その逆の解釈が成り立ちます。つまり、「わたし(ソウザ)」が、ガルベスの手記を改竄あるいは創作したという可能性です。
 ……などと偉そうに書くまでもなく、このフィクションはそのように成立したに違いありません(ガルベスの手記なんて存在するはずない)。
 しかし、そうすると、一見複雑にみえたテクストは、作者が階層をひとつ降りただけの「架空の伝記」となってしまいます。

 それはそれで良質なメタフィクションになったと思うのですが、アマゾニアらしい神秘さ(得体の知れなさ)を醸し出すためには、読者に対して、できるだけ小説の構造を隠しておく必要があったのかも知れません。そのため、胡散臭い人物をふたり用意して、どちらも信じられないように細工したのでしょう。
 この大らかでエロチックでいい加減でスケールの大きい物語の裏には、作者の緻密な計算が潜んでいるのです。

※:アドルフォ・ビオイ=カサレスの『モレルの発明』も似たような形式だが、あちらは脚注で割り込んでくる。

『アマゾンの皇帝』旦敬介訳、弘文堂、一九八八