読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『遙かな海亀の島』ピーター・マシーセン

Far Tortuga(1975)Peter Matthiessen

 ナチュラリストであり、作家でもあるピーター・マシーセンは、小説も書くし、ノンフィクションもものします。
 で、どの本を取り上げるか悩んだのですが、二者択一で決めきれませんでした……。というのも、僕が好きな二冊『遙かな海亀の島』と『雪豹』は、片やカリブ海を舞台にした小説、片やヒマラヤを舞台にしたノンフィクションと、見事に対照的だからです。
 同じくらい評価が高く有名な代表作がふたつある場合(『ユリシーズ』と『フィネガンズ・ウェイク』、『サーニン』と『最後の一線』、『ブラス・クーバスの死後の回想』と『ドン・カズムーロ』、『火星人ゴーホーム』と『発狂した宇宙』、『虎よ、虎よ!』と『分解された男』など)、どちらか一方を選ぶことなどとてもできません。
 というわけで、今回は『遙かな海亀の島』を、そして別の機会に『雪豹』の感想文を書くことにします。

 カリブ海に浮かぶグランドカイマン島。レイブ船長ら九人の船乗りは、リリアス・エデン号を操り、青海亀漁に出ます。
 グランドカイマン島は、十八世紀には「海賊の巣」と呼ばれたように、今も荒くれ者が集まっています。エデン号の乗組員も、飲んだくれのおいぼれ、人殺し、泥棒など、一癖も二癖もある者ばかり。
 長い航海の末、瀕死の彼らが辿り着いたのは、青海亀が数多く棲息するという「ファートーチュガ」でした。

 ハーマン・メルヴィルの『白鯨』が幻の鯨を追うのに対して、こちらは青海亀と、やや小粒でしょうか(海亀は高級食材で、『不思議の国のアリス』にも海亀のスープが登場する)。しかし、『白鯨』が今なお唯一無二の存在であるのと同様、『遙かな海亀の島』も、とにかく不思議な作品です。
 ルポルタージュと異なる「小説」ならではの自由さを利用して、マシーセンは独特の世界を作り上げました(※1)。

 戯曲のように、科白と最小限のト書き、そして奇妙なイラスト(写真)から成っていますが、「 」も人物名もないので、誰が誰に向かって喋っているのか、非常に分かりにくい。おまけに、海洋・航海・船舶の専門用語や俗語がバンバン出てくるため、最初のうちはついてゆくのが大変かも知れません。
 けれど、一旦慣れてしまえば、男たちの個性、大自然の美しさ・厳しさに、ガッチリ心を掴まれてしまいます。彼らの、下劣だけど生きている言葉が、心地よいリズムを生み出すのです。

 そもそも、この小説に占める声や音の割合はとても大きい。男どもの饒舌なスラングのみならず、波や風やスコールの音、鳥の鳴き声、あるいは船上から放尿する音などが豊かに表現され、読者はそれらを頼りに、遥かな海上に思いを馳せることができます。
 それは、ひょっとすると、オノマトペを駆使して愛すべき自然を表現した宮沢賢治に通じるものがあるのかも知れないと本気で思ってしまうほどです。

 また、九人の乗組員の声に区別をつけにくいというのは、マクシム・ゴーリキーの短編『二十六人とひとり』のように「一人称複数」の効果を狙ったものかも知れません。ゴーリキーは二十六人のパン職人を、たったひとつの無個性な人格として表現しましたが、マシーセンも海の男たちをひとつのイメージに当てはめました。
 つまり、男どもの声が混じり合うことによって個性が消え、典型的な船乗りの幻影が浮かび上がってくるという仕掛けになっているのです。

 いえ、幻というより、彼らは生きながら亡霊になった男たちです。
「ファートーチュガ(直訳すると、遠い海亀)」というのは海図にも載っていない謎の岩礁です。また、カリブ海の青海亀は、乱獲によって絶滅寸前にあります。
 それらと同様、海賊の末裔である海亀漁師にとって、現代は甚だ生きづらく(作中、何度も「現代だもんね」という呟きが繰り返される)、近いうちに滅びる運命にあるのは明白だからです。

 何も食べず、横になろうともせずに死んでいった船長の老いた父親、途中で別の船に乗り換えてしまったかっぱらい、ニカラグアで船を降りる酔いどれ親父、そして、座礁したエデン号と死にゆく乗組員たち(※2)。
 盛者必衰の理とはいえ、その末期の叫びは何とも切なく、胸に響きます。
 それでも、大いなる海原は、何も変わらず、ただ横たわっているだけ……。

 冒険の要素は少ないものの、無性に水平線が恋しくなる海洋小説の傑作です。

※1:加えて日本版には、小川国夫のユニークな「あとがきみたいなもの」がついている。

※2:『白鯨』ではイシュメールが唯一の生存者となるが、ここではホンジュラスの黒人スピーディがただひとり生き残った……かも知れない。


『遙かな海亀の島』小川国夫、青山南訳、講談社、一九八〇

→『雪豹』ピーター・マシーセン

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