読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『エペペ』カリンティ・フェレンツ

Epepe(1970)Karinthy Ferenc

 ハンガリー語は、日本語と同じく「姓・名」の順に表記します(※1)。
 つまり、カリンティ・フェレンツは、カリンティが苗字です。混乱した場合は、父親でやはり作家のカリンティ・フリジェシュ(※2)を思い出せば間違えずに済むでしょう。

 一九六六年に発行された「現代東欧文学全集」3の『くず鉄墓場/ブダペストに春がきた』に掲載されている「現代ハンガリーとその文学」には「カリンティの文学は、その作家としての出発当時はシュールリアリズムの傾向を色濃くもっていたが、四〇年代の終りからリアリズムに変わっていった」「彼(フェレンツ)の作品には、どちらかといえば大衆小説的色彩が強く、父親(フリジェシュ)の作品に比べると、文学的には到底その高さには及ばないが(後略)」などと書かれています。
 しかし、これはふたつとも正しくなかったといわざるを得ません。というのも、その後、刊行された『エペペ』(写真)は不条理文学であるとともに、文学史上に残る大傑作だからです。

 言語学者のブダイは、ヘルシンキで行なわれる学会へ参加するため飛行機に乗りますが、乗り間違えてしまったのか、全く知らない都市に到着します。そこは、言葉の専門家であるブダイも聞いたことのない言語が飛び交い、意思の疎通が全くできない場所でした。おまけに、周囲には人が溢れており、何をするにも長い行列に並ばなければいけません。
 複数の言語でメッセージを残したり、わざと警察に捕まったりしますが、誰にも意図は伝わらず、この都市を脱出することができないブダイ。
 ある日、彼は三十年も前のハンガリーの雑誌を読んでいた老紳士を目撃します。もしかすると、ブダイも彼のように、この街から永遠に脱出できなくなってしまうのでしょうか。

 社会の仕組みや文化はさほど違わないのに、言葉もジェスチャーも全く通じないというのは悪夢以外の何ものでもありません。
 大抵の物語は、その後、理解者や協力者を得て、難題をひとつひとつ解決してゆきます。フランツ・カフカの『城』のように謎が深まるばかりだとしても、少なくとも会話くらいは成立します。
 ところが、『エペペ』はいつまで経っても、それさえ叶わないのです。ブダイは博識な言語学者であるにもかかわらず、音声言語からも文字言語からも解読のヒントすら得られません。なおかつ、困っている彼に救いの手を差し伸べてくれる者はほとんどおらず、狂人でもあるかの如く邪険に扱われます。
 その結果、彼以外で唯一名前を持つ登場人物であるエレベーターガールのエペペ(ブダイが勝手に名づけ、表記はその都度異なる。ペェペェだったり、ベベェだったり)とも、到頭最後まで会話は成り立ちませんでした。

 こんな設定で長編小説を書いたことにも驚きますが、それ以上に凄いのは、ブダイの独白と、堂々巡りだけで読者を飽きさせない点です。
 ほとんど前置きもなく不条理な状況に陥り、そこから先は、ブダイが毎日、町を彷徨い歩き、夜、ホテルに戻るという同じような展開が延々繰り返されます。何も進展しないし、大きなトラブルに巻き込まれるわけでもない。この国の人にとってブダイは、ただの石ころのような異邦人に過ぎないので、事件は起こりようもないのです(皮肉なことに、物語の最後になってブダイは銃撃戦に巻き込まれ、ここではなぜか反乱軍の兵士たちがブダイの存在を認めてくれる)。

 実をいうと、言葉が通じないことより、無視されることの方が遥かに辛い。それは、ブダイにとってはいわずもがな、作者にとってもです。「会話なし」なんて、長編小説を書く上で最も過酷な制約だからです。
 にもかかわらず、ちっとも退屈しない。それどころか、憂鬱な現実を離れた至福の読書を堪能できるのは、なぜなのでしょうか。

 その秘密は、『エペペ』が、単なるディストピア小説ではないからだと思います。
 勿論、無機質で個性を剥奪された民衆によって構成された全体主義国家を批判しているともいえます。唐突とはいえ、クライマックスに武装蜂起が描かれるのも、そうした意図があるのでしょう。

 しかし僕は、それとは正反対の読み方をしました。
 誰ひとり知らず、言葉も通じず、文字も読めない街をひとりきりで彷徨うという行為に、これ以上ない孤独の楽しみ方を見出したのです。

 ブダイの彷徨は、悪夢のようではありながら、何度も繰り返すうちに意外と楽しそうにみえてきます。そう感じていると、彼自身、この都市に愛着を感じるようになったことを告白してくれたりして、思わずニヤリとさせられます。
 孤独が心地よくなったことに加え、命の危険にさらされるわけでも、とんでもなくひどい目に遭うわけでもない。おまけに、金欠も宿なしも病も歯痛も簡単に解決するし、エペペともセックスできるのですから、大いに恵まれているとさえいえます。やがて、飲んだくれの浮浪者に身を窶すのですが、それもまた気楽そうで、悲壮感は余りありません。
 これらの事柄がブダイ、そして読者の気持ちを緩ませるのです。

 そうと割り切れば、この小説を、架空の国の紀行として楽しむことができます。
 誰にも干渉されず、知らない町を探検でき、さらには余計な詮索をしない美女と懇ろになれる(しかも、あっさり手を切れる)というのは、人間関係に疲れた都会人の心を癒す理想的な旅、いや、男の夢にほかならないからです。
 ひとりで初めての土地に出張にゆく際のお供にしてもよし、学校や会社をサボってベッドのなかで読むもよし。最上級の孤独を満喫できること請け合いです。

 ただし、この街においては、読書の楽しみだけは満たされません。したがって、もしここを訪れるなら、お気に入りの本を持参しなければならないのです。
 さもないと、誰かさんのように、三十年も前の映画雑誌を繰り返し読み続ける羽目になりますから……。

※1:アゴタ・クリストフハンガリー人なので、本来はクリストフ・アゴタとなるらしいが、フランス語で執筆していることなどもあって、名前もフランス風にしたそうである。

※2:カリンティ・フリジェシュの日本で唯一の単行本『そうはいっても飛ぶのはやさしい』は、なぜかチェコの作家イヴァン・ヴィスコチルの短編と抱き合わせだった。なお、表題作はヴィスコチルの短編である。


『エペペ』池田雅之訳、恒文社、一九七八

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