読書感想文(関田 涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『カタリーナの失われた名誉 ―言論の暴力はいかなる結果を生むか』ハインリヒ・ベル

Die verlorene Ehre der Katharina Blum oder Wie Gewalt entstehen und wohin sie führen kann(1974)Heinrich Böll

 本書はドイツの作家ハインリヒ・ベルのベストセラーで、映画化もされました(映画の邦題は『カタリーナ・ブルームの失われた名誉』)。ベルは一九七二年にノーベル文学賞を受賞しており、話題になったのはその影響もあったでしょう(日本でも、原著発行の翌年に邦訳された)。

 しかし、この本が売れた最大の理由は、ある事件のせいでした。サイマル出版会という、文芸書を余り発行していない出版社から訳本が発行された理由も、そこにあります。
 それは、ドイツ赤軍(バーダー・マインホフ・グルッペ)のテロ行為を巡る、ベルと「ビルト」紙の論争です。
 この作品を理解するには不可欠なできごとですので、以下、事情を簡単に説明しておきます。

 ドイツ赤軍は、過激な極左の集団で、一九七〇年代より、多くの死傷者を出すテロ行為を繰り返していました(日本赤軍に共鳴して名づけたそう)。暴力行為がエスカレートするに従い警察の追及も荒々しくなり(無実の者を射殺してしまったり、ハンスト中の収監者を殺してしまったり)、さらにそれが赤軍側の報復を招くといった状況になっていました。
 ジャーナリズムは、そうした事件を大々的に書き立てました。特にビルトは、センセーショナルなゴシップ記事を裏づけも取らず掲載し、読者を煽っていました。
 それに苦言を呈したベルは、逆に赤軍の擁護者のレッテルを貼られ、集中砲火を浴びることになってしまったのです。
 片やノーベル賞作家で国際ペンクラブの会長、片やアクセル・シュプリンガー社の中核を担う、ヨーロッパ最大の発行部数を誇る大衆新聞。二大怪獣の、余り有意義ではない戦いの末、生まれたのが本書でした。

 邦題に「言論の暴力」という言葉がありますが、原題にそうしたニュアンスは含まれていません。けれど、ベルが、ビルトによる言論の暴力に憤りを感じていたことは、以下の「はしがき」からも明らかです。
〈この話の人物や筋は、自由に創作したものである。万一ジャーナリズムの実際面の描写において「ビルト」紙の実情との類似点が生じたとすれば、それらの類似は意図したものでもなければ偶然でもなく、不可避なのである〉

 ベルは個人的な恨みでこの作品を書いたわけでもないし、小説で論争の続きをするつもりもなかったというのが建前でしょうから、前置きはこのくらいにして、あらすじを記載したいと思います。

 ある日、カタリーナ・ブルームという二十七歳の女性が、警部を訪ね、ジャーナリストとカメラマンを殺害したと伝えます。実は、彼女はゴシップ紙の被害者でした。
 ダンスパーティで出会った男性をアパートに招き入れたところ、その男が強盗殺人犯であったため、カタリーナは、警察の事情聴取を受けることになります。それを何者かが漏洩し、カタリーナに関するゴシップ記事が紙面を賑わせることになったのです。
 彼女の味方であるはずの身内や知人の談話も、記者の手にかかると悪意と憎悪の塊となります。また、カタリーナは、記事を信じた世間の冷たい目や残酷な仕打ちにも耐えなければなりませんでした。
 やがて、それが殺人を招いてしまいます。

 タイトルのとおり、カタリーナがいかに犯行に至ったか、その動機を探る疑似ルポルタージュの体裁を取っていますが、無味乾燥というわけではなく、ユーモア、そしてジャーナリズムに対する皮肉をたっぷりと含んでいます。ジャーナリストの死を特別重大なものとして報道する「しんぶん」(ビルトのこと)の不遜さを露骨に嘲ったりしているのです。
 しかし、最大のテーマは、偏った報道によって、人々が事実とかけ離れた虚像を信じ込まされてしまうことでしょう。

 そう聞くと、思い当たる事件やできごとが、誰しもひとつやふたつはあるのではないでしょうか。
 情報量の多い現代でも依然存在する問題どころか、その質の面で、より深刻になっているといえます。今の時代は、モラルの低いマスコミだけでなく、インターネットの匿名掲示板などが撒き散らす怪しげな情報に満たされているからです。

 この作品においても、カタリーナという勤勉で几帳面な女性が全く異なる姿(抜け目ない野心家で、愛欲に溺れた淫らな女)にされてしまう様子が描かれています。
 彼女は「しんぶん」による言葉の暴力に加え、悪意と卑猥さに満ちた匿名の手紙にも苦しめられます。世間や大衆といった具体的な姿を持たない存在だけに、得体の知れない恐怖を齎すとともに、怒りの矛先を向けにくい。

 勿論、報道する側に人権侵害、モラルの欠如、過剰な取材といった問題があるのは間違いありません。けれども、それらは受け手がいなければ、まるで意味を持たないでしょう。
 そう考えると、本当に脅威なのは、知恵も感性も働かせず、記事を丸ごと信じ込み、それでいて何ら責任を負わない読者なのかも知れません。
 しかも、厄介なのは、ほとんどの人がそうしたことを自覚しておらず、それどころか自分こそが真の常識人だと信じ切っていることなのです(作中でも、出歯亀根性は、人としてやむを得ないと書かれている)。

 と、まあ、テーマとしては別段、目新しさはありませんが、表現方法には工夫がみられます。

 まず、この作品をルポルタージュの手法で書いたのは、客観性を前面に押し出すとともに、「この結末は、私の願望ではなく、事実なのですよ」という点を強調したかったからではないでしょうか。
 明らかなフィクションの形で、志の低いジャーナリズムを批難してしまえば、それが正論だとしても、当時のベルの立場では「復讐」「意趣返し」といった印象を持たれてしまい兼ねません。
 冷静さを装うためにも、調書のようなお堅い形式が必要だったのだと思います。

 ただし、それだけなら、別段大したことはありません。ノーベル文学賞の権威に誤摩化されなければ、「社会的なテーマを扱っているが、小説としては凡作」といい切ってしまえるでしょう。
 ところが、上記とまるで逆のこと、つまりリアリティを感じさせない要素を敢えて盛り込んでいる点で、この作品はとてもユニークなのです。

 それを最も分かりやすく表しているのは、カタリーナの抱いた殺意の不自然さです。
 本書において、殺害の動機は何より大切です。そのため、数多くの証言や証拠を用い、カタリーナの人柄や事件の真相に丁寧に迫ってゆくのです。
 にもかかわらず、動機に関して、読者を十分に納得させてくれません。「謂れのない中傷に憤りを感じるのは分かるけど、果たしてそれが殺害を決意させるほどのことなのか」と、しばし悩んでしまいます。

 彼女は一種、独特な言語感覚の持ち主で、調書に用いた形容詞ひとつにも納得しないくらいですから、卑劣な言葉の暴力を許すことができなかった、と解釈することは可能です。が、カタリーナは、インテリでもなく家柄もよくないバツイチの家政婦という設定だけに、それだけだと、やはり動機として弱い気がします。
 それと同様に、記者の無遠慮なインタビューによって病気の母親が死に至ったというのも余り説得力がありません。それであれば、記者に「一発やろう」とからかわれたから、拳銃で「一発やってやった」という駄洒落みたいな理由の方が、まだしも信じられます。
 ベルは怒りに目が眩み、物語の整合性やカタリーナの人物造形に気が回らなかったのでしょうか。

 そうではなく、これは小説家としての矜持だと思います。
「恋人を殺されたから、復讐のため人を殺した」なんて面白くも何ともないではありませんか。それよりも、「太陽が眩しかったから」という理由を、小説として成立させてしまう方が遥かに魅力があります。

 勿論、この作品は不条理文学ではありませんが、紛れもなく虚構であり、その世界においては、名誉を守るためには殺人も厭わず、罪の意識にも苛まれない女性こそがリアリティを持つのです。

『カタリーナの失われた名誉 ―言論の暴力はいかなる結果を生むか』藤本淳雄訳、サイマル出版会、一九七五