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読書感想文(関田 涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『豚の戦記』アドルフォ・ビオイ=カサレス

Diario de la guerra del cerdo(1969)Adolfo Bioy Casares

 アドルフォ・ビオイ=カサレスは、ホルヘ・ルイス・ボルヘスと大変仲がよく、多くの共著があります(オノリオ・ブストス=ドメック名義)。
 ふたりとも探偵小説が好きで、『ドン・イシドロ・パロディ 六つの難事件』なんて本も出しています。
 ビオイ=カサレスの単著も、ボルヘスほどではありませんが、複数訳されています。以前取り上げた『モレルの発明』や、それに雰囲気が似ている『脱獄計画』などが特に人気が高いように思われます。

 そのなかで『豚の戦記』は、老人文学に分類されるでしょうか。といっても、人生の黄昏を静かにみつめたり、痴呆について考える小説ではなく、老人狩りとそれに対抗する年寄りたちを描いています。
 日本の小説だと、筒井康隆の『銀齢の果て』に雰囲気が近いかしらん。まあ、今は高齢社会だけに、エンタメ小説においても老人の活躍が目立ちますが、『豚の戦記』は、その先駆といえる小説だと思います(ハードボイルドなら、七十八歳の私立探偵が活躍するL・A・モースの『オールド・ディック』がお勧め)。

 寒い日が続くブエノスアイレスの六月、若者による老人への暴力が頻発しています。図々しくて、欲張りで、汚らわしい年寄りたちは「豚」と呼ばれ、リンチされるのです。
 そろそろ六十歳になるイシドーロ・ビダルの仲間も殺され、彼自身も襲撃に遭います。そして、どうやら若者グループには老人たちの息子も加わっているようなのです。
 そんなある日、同じアパートに住む若く美しい娘が、彼にいい寄ってきて、引っ越し先に匿ってくれることになるのですが……。

 歳をとると、自分がもう誰からも必要とされていない廃棄物なのかも知れないと考えるようになります。若者に襲われることで、それが事実であることを認めざるを得なくなるわけです。暴力の恐怖なんかより、そのときの絶望の方が遥かに大きなダメージを齎します。
 特にビダルは、自分はまだまだ若いと考えており、事実、女にもてたりするだけに、衝撃の度合いも激しく、そこからいかに現実を受容してゆくかが、この小説のテーマになっています。

 老いて尚、若い女を追い掛けたり、金儲けに精を出す老人を醜悪だと感じる若者の気持ちは理解できます。彼らは、いずれ自分たちも老人になることを知っているため、余計に年寄りを嫌悪するのです。そして、自分は、若者に迷惑をかける老人にはならないと誓います。

 老人が厭われる正当(?)な理由のひとつに、地位や既得権益にしがみつき、若者に席を譲らないからというものがあります。実際、この作品の舞台となった一九六〇年代のアルゼンチンは、社会の高齢化というより、経済の停滞と、ヨーロッパからの移民の世代交代が問題となっていたのではないでしょうか。
 つまり、「若者たちが貧しさで苦しむ元凶は、図々しく居座り続ける年寄りどもにある」という図式が、容易に受け入れられる土壌ができあがっていたわけです。
 その風潮に反発し、ことさらエネルギッシュに振る舞う老人も登場しますが、それはそれで滑稽です。
 かといって、枯れて、出しゃばらず、大人しくしているのが正しい高齢者の姿といいたくもありません。

 いずれにせよ、これは現在の日本のような高齢化社会においても重要なテーマであることは間違いないでしょう。
 対老人戦争は極端に走りすぎですが、それぞれが人としての引き際を考えておくことが大切なのかも知れません。

 ……といいつつ、若い頃は考えもしなかったことが、今、起こっており、少々混乱する場面もあります。
 昔は「歳をとったら、相当肩身の狭い思いをするだろうな」と心配していたのですが、現在、例えば小洒落たブティックやレストランなどにいっても、自分より明らかに年上と思われる人たちで溢れていて、場違いな気分になることが余りありません。
 老人が幅を利かせる社会がよいとは思いませんけど、そこに近づきつつある者として、気を遣わなくてよい点は確かに楽です。
 一昔前だったら、ベレー帽をかぶり、肘当てのついたジャケットを着て、コーデュロイのパンツを履き、背を丸めて道の端を歩いていたかも知れないのに……って、本とは関係のない話になってしまいましたね。

『豚の戦記』荻内勝之訳、集英社文庫、一九九四

→『モレルの発明』アドルフォ・ビオイ=カサレス