読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『砂塵の町』マックス・ブランド

Destry Rides Again(1930)Max Brand

 マックス・ブランドは多作な作家でしたが、ウエスタン小説は日本で売れないというジンクス(事実?)があるせいか、訳本は僅か二冊のみ。
 しかも、代表作の『砂塵の町』(写真)は一九八五年になって、ようやく翻訳されました(※)。

 それにしても、なぜ、こんな時期に出版されたのでしょうか。
 実をいうと、中央公論社(現:中央公論新社)は一九八四年に片岡義男監修の「Paperback Western」という叢書を刊行しました。その名のとおりペーパーバック形式のウエスタン小説シリーズでしたが、売行きが芳しくなかったのか五冊出したところで消滅してしまいました。
『砂塵の町』は、そのシリーズから刊行する予定だったのが、叢書自体がなくなってしまったため、やむなく文庫で出版されたのかも知れません。
 翌年にはアーネスト・ヘイコックスの『テキサスから来た男』も中公文庫から刊行されています。

 なお、二〇一八年一月にエルモア・レナードの初期ウエスタン『オンブレ』が村上春樹の訳で出版されました。「訳者あとがき」によると、そもそもレナードは、犯罪小説の方も日本では余り売れないとのこと。ましてや、若い頃に書いたウエスタン小説ですから、村上訳というパッケージに包んだとしても厳しい戦いになったのではないかとお節介にも想像してしまいます(ロバート・B・パーカーのウエスタン小説は、日本でもそこそこ人気があるみたいだが……)。

 アメリカにおいても、人々がテレビで西部劇をみるようになり、西部小説が衰退したと前述の「訳者あとがき」に書かれています。確かに、テレビドラマという頭を使う必要のない娯楽が普及してしまえば、単純な勧善懲悪のウエスタンを楽しみたい人が活字を追うなんて面倒なことをするとは思えません。
 アンチウエスタンと呼ばれる善悪の基準が曖昧な小説(コーマック・マッカーシーなど)もありますが、こちらは読者層が明らかに異なります。

 さて、『砂塵の町』は、三度も映画化されており、最も有名なのはマレーネ・ディートリヒジェイムズ・スチュアート主演の『砂塵』(1939)です。また、後に『Destry』というテレビシリーズも作られました。
 こう書くと「西部劇の王道」と思われるかも知れませんが、映画やテレビは小説とは全くの別ものです(デストリーが保安官の手伝いをするくらいしか共通点がない)。

 テキサス州ファムで暮らすハリソン・デストリーは、チェスター・ベンツに嵌められ、列車強盗の罪に問われます。乱暴者故、町の人の恨みを買い、無実にもかかわらず刑務所に入れられてしまいます。六年間後、出所した彼は、打って変わって臆病で大人しい人物になっていました。
 有罪判決を下した陪審員たちは復讐を恐れ、町から逃げ出していましたが、変わり果てたデストリーの噂を聞き、ファムに戻ってきます。しかし、それはデストリーの策略でした。

 復讐ものは、西部劇でも『勇気ある追跡』『捜索者』『ネバダ・スミス』『砂漠の流れ者』など傑作の多いジャンルです。
 復讐譚を大きく分けると、自分のことと、自分以外のこと(大切な人を殺された、仇討の手伝いなど)に分けられますが、当然ながら他者のために戦う方が格好はよい。

 さらに、デストリーは去勢されたふりをして、突如、牙を剥き出しにするのですが、西部劇のヒーローとしては何ともせこく狡猾な手口です。
 そもそも陥れられたのも、乱暴者で皆に嫌われたからです。日頃の行ないがよければ、こんな目に遭っていなかったのではないでしょうか。事実、終わり近くになって、デストリーは、町の人を見下していたから仕返しされたことにようやく思い至ります。

 デストリーの復讐の方法も変わっています。
 単純な銃撃戦もありますが、ネチネチいびって町から出てゆかせたり、収賄の証拠となる手紙を盗んで新聞社に持ち込み失脚させたりと陰険なものも含まれます。
 だからといって頭が切れるというわけではなく、罠に嵌めたのがベンツだということに最後まで気づかず、彼を親友と思い込んでいます。

 西部劇の主人公といえば「寡黙で優しいが、いざとなったら勇敢に正々堂々と戦う」というのが定番なのに、デストリーは真逆。「ずるくて饒舌だが、頭は余り切れない。敵を倒すのに手段を選ばない」のですから、はっきりいって悪役キャラ以外の何ものでもありません。それも、アクが強くないのでボス役はできず、精々ザコ敵くらいしかこなせないのではないでしょうか。
 そんな調子なので、元婚約者のシャーリーにまで「あなたと闘うわ!」なんていわれてしまいます。彼女に未練はないと格好つけつつ、偽の手紙で誘われるとウキウキして会いにいってしまうところも実に情けない……。

 だからこそ、映画化する際はキャラクターもストーリーも原形を留めないほど変えられてしまったのでしょう。しかし、現代であれば、小説の方が断然興味深い。
 いや、現代どころか、ブランドが『砂塵の町』を書いた時点で、ウエスタンの典型的なヒーローは既に時代遅れだったのかも知れません。
 スカッと爽快な気分になりたい映画の観客はともかく、小説の読者はそんなものでは満足できない小うるさい人が多いのではないでしょうか。
「テレビのせいで西部小説が廃れた」とありましたが、『砂塵の町』のような作品こそ小説の生き残る道を示しているような気がします。
 ブランドは西部小説が駄目になることを予期して、エンターテインメントでありつつ、小説でしか表現できないウエスタンを生み出そうとした……なんてことは、パルプマガジンの全盛期ですからまずないと思いますけれど、少なくとも今までにないものを作ってやろうという心意気は伝わってきます。

 実際、デストリーが敵役をひとりずつ処理してゆく様は、手口がバラエティに富んでいるせいか飽きがきません。復讐ものにもかかわらず悲壮感がないのもゲームみたいで楽しい。デストリーを慕うウィリー少年の活躍も見事で、パルプフィクションとしては上々の出来です。

 多作故、いい加減な部分もあるのですが、それすらも魅力になっているのはフィリップ・K・ディックと似たものを感じます。
 SFに代わってウエスタンが人気となったパラレルワールドの日本においては、ブランドの作品が次々に翻訳され、「この破綻具合が堪らないんだよなあ」などといわれているかも知れませんね。

※:新鋭社ダイヤモンドブックスの「西部小説シリーズ」では『峡谷の銃声』が刊行され、『シャイアンの兄弟』と『砂塵』は予告されたものの未刊行に終わった。

『砂塵の町』林太郎訳、中公文庫、一九八五

エスタン小説
→『ループ・ガルー・キッドの逆襲』イシュメール・リード
→『ビリー・ザ・キッド全仕事マイケル・オンダーチェ
→『勇気ある追跡』チャールズ・ポーティス
→『大平原』アーネスト・ヘイコックス
→『黄金の谷』ジャック・シェーファー
→『西部の小説
→『幌馬車』エマーソン・ホッフ
→『六番目の男フランク・グルーバー

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