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読書感想文(関田 涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『第七の十字架』アンナ・ゼーガース

Das siebte Kreuz(1942)Anna Seghers

 絶版本の感想を書いていて、改めて感じるのは「復刊される本が案外と多い」ってことです。このブログで取り上げた書籍も、かなりの数が復刊されたり、久しぶりに重版がかかったりしています。
「海外文学は売れない」と、よくいわれます。しかも、コアなファンなら再刊なんて待たず、既に所持しているか、古書を探して購入するケースが多いと思われます。
 にもかかわらず、復刊するということは、好事家ではない一般の読者を狙っているのでしょうか。その割には、マニアックな作品が新刊書店に並んだりして驚かされることがたびたびあります。娯楽が少なかった時代と異なり、七面倒な文学がネットやスマホに勝てるとは、とても思えないのですが……。
 まあ、新訳でなければ金も手間も掛かりませんから、運よく売れれば儲けものって感じなんでしょう。

 アンナ・ゼーガースの『第七の十字架』は、古書価格も評価も人気も高いので復刊されてもよさそう……いや、そもそも、この作品は一九五二年に筑摩書房から上下巻で刊行され、その二十年後に河出書房新社の「モダン・クラシックス」シリーズで復刊されたのです(僕が買ったのも河出書房版)。
 が、それから既に四十年が経過しています。同じモダン・クラシックスから一九七一年に刊行されたアルフレート・デーブリーンの『ベルリン・アレクサンダー広場』は、二〇一二年に復刻新版が出ているので、この作品やヒョードルソログープの『小悪魔』などは、新版が発行されてもおかしくありません。
 高価な古書に手が出ない方は、もう少し待ってみるのが吉かも知れませんね。

『第七の十字架』の帯には「ドイツ抵抗文学の傑作」と書かれていますが、正にそのとおりの小説です。暗く重苦しいモノトーンの世界は、いかにも「文学」らしい格調に満ちています。
 一方で、秀逸なプロット、スリリングなストーリーを有しており、エンターテインメント小説のように楽しむこともできます。
 奇しくも同年に出版されたワンダ・ワシレフスカヤの『』とは「女性による反ナチ文学で、戦争の悲惨さを伝えつつ、娯楽性も備えている」という共通点があるように思います。

 一九三六年十月のある月曜日。ナチス強制収容所から、七人の男が脱走しました。
 七人はバラバラな道をゆきます。あっという間に捕まってしまう者、仲間の密告によって捕まる者、しぶとく逃げ続ける者、逃げるのに疲れ自ら出頭する者、自分の村の手前で命を落とす者……。彼らの家族や知人、逃亡先で出会う者、あるいはナチのSS(親衛隊)やSA(突撃隊)、ゲシュタポらを交えた人間模様が丁寧に描かれます。

 一日につき一章で一週間(正確には月曜から翌月曜の朝までの八日間)、七人の脱走者を追い掛けます。
「いつ捕まるか」と怯える逃亡者を追っているので、全編に亘って緊迫感は持続しますが、決して読みやすい小説ではありません。
 登場人物が非常に多く、しかも、大分前に一瞬顔をみせた人物が、別の章で重要な役割を果たしたりするため、気が抜けません。さらに、唐突に別の視点が挿入されることもあるので、最初のうちは混乱することもあるかと思います。

 しかし、一旦、小説のなかに入り込んでしまえば、女性の作家らしい目配りがゆき届いた濃やかな描写や、計算され尽くしたプロットを堪能することができます。後半、バラバラだった人物が一本の線で結ばれる箇所などは、思わず唸ってしまうほど見事です。
 もし道に迷ったときは、巻頭の詳細な人物一覧が理解の助けになってくれるでしょう。

 なお、七人の逃亡者といっても、ほとんどのシーンで中心となるのは、主人公のゲオルクです。
 ゲオルクは、反ファシズム労働運動によって捕えられた青年です。レジスタンスの闘士らしく熱い魂を抱えていますが、一方で、傲慢かつ自分勝手で非情な面も備え、友人であるフランツから恋人エリを奪い、子どもを作ったにもかかわらず逃げ出してしまうという過去も持っています。
 彼は、ヴァラウという政治犯を崇めており、その計画に従い脱走しました。逃亡中も、ヴァラウを唯一の希望として心の支えにし続けます。

 ゲオルクは、ドイツ共産党員として亡命を余儀なくされたゼーガース自身を反影しており、一面においては英雄として描かれます。しかし、逃亡者は、身内や知人からすると迷惑な存在であることも、また事実なのです。
 例えば、義理の父である老人や、ゲオルクと間違えて強制収容所に送致されてしまったエリの恋人などは正にそうです。
 特に義父は、娘を誑かしたゲオルクを、あからさまに憎んでいます。SAが張り込んでいるところに戻ってこられると、とばっちりを食う虞があるため、その前に捕まって欲しいというのが偽らざるところでしょう。

 他方、妻のエリは、もしゲオルクが頼ってきたら匿うつもりでいます。それによって再び監禁されようが、SS隊員の夫を持つ姉や父親に反対されようが意志を曲げる気はなさそうです。
 それは、反ファシズム、反ナチのイデオロギーに共感しているわけでは勿論なく、理屈抜きでゲオルクを愛しているからです。

 いずれも、人間臭く、愚か故にリアリティが感じられます。
 同じ状況におかれたらと想像すると、彼らを笑うことなどとてもできません。

 さらに、ゲオルクの周囲には、複雑な人間模様が蜘蛛の巣のように張り巡らされます。今なおエリに思いを寄せながら、ゲオルクの助けになろうとするフランツ、弟がSA隊員であるゲオルクの母、ヴァラウを裏切った罪の意識に苛まれ縊死する男、ライバルを密告して強制収容所送りにした村長(脱走者の仕返しを恐れている)、ゲオルクの友人をゲシュタポのスパイと思い込む男、ゲオルクを捕えられなかったため自害する強制収容所司令官などなど……。
 なかでも痛烈に印象に残るのは「どうせ首を縊るんなら昨日訊問される前にやればよかったのに、わたしの洗濯物の綱がもったいないじゃないか」と叫んだ妻です。
 彼女は、ヴァラウの妻とも親しいため、負い目を感じたでしょうし、ゲシュタポの手前もあったでしょう。夫が自殺したにもかかわらず、そう叫ばざるを得なかった心情は察するに余りあります。

 このように、それぞれの立場を守って必死に生きている小市民たちこそが、この小説の真の主役といえます。
 読者は、そのなかから感情移入できる人物をみつけ出したり、現実の誰かの面影を重ねたりしながら、物語にどっぷりと浸かってゆくことでしょう。
 反ナチといっても、ヒステリックな糾弾やアジテーションに終始していたら、読者の心を捉えることは決してなかったと思います。
 どこにでもいる市民の日常を軸とし、それが第三帝国の恐怖によって、どのように変化したのかを終始、冷徹な目で描いたからこそ、世界中の人々に受け入れられたのではないでしょうか。

 一貫して重苦しい雰囲気に満ちていますが、勿論、光明もあります。
 ラストでは、弱い立場の者たちが協力し合い、ゲオルクを助けます。それによって、彼は七番目の十字架にかけられることなく、国外に逃れることができたのです。
 そして、それは、フランスに夫と子どもを残してメキシコに渡らざるを得なかったゼーガース自身の希望の光でもあったのではないでしょうか。

 ゼーガースは、戦後、西ベルリンに戻った後、東ベルリンに居を移し、活動を続けました(ベルトルト・ブレヒトと同じパターン)。そして、ベルリンの壁の崩壊をみずに亡くなっています。

『第七の十字架』山下肇、新村浩訳、河出書房新社、一九七二