読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『オルゴン・ボックス』パスクァーレ・フェスタ・カンパニーレ

Conviene far bene l'amore(1975)Pasquale Festa Campanile

 パスクァーレ・フェスタ・カンパニーレは、処女小説『La nonna Sabella』(1957)が大変好評だったにもかかわらず、映画の世界の方が肌に合ったのか、その後、あまり小説を書きませんでした(※)。
 監督として四十を超える映画があり、脚本家としてはルキノ・ヴィスコンティの『若者のすべて』や『山猫』などが知られるなど、映画人として大成功を収めたわけですから、地味な文学なんか続ける必要がなかったのでしょうね。
『オルゴン・ボックス』(写真)も当然ながら映画化され、『SEX発電(セックス発電)』というタイトルで日本でも公開されました。いわゆるイタリア式コメディで、『女性上位時代』や『裸のチェロ』同様、エロチックな笑いを主としています。

 小説の方の邦題となった「オルゴン」とは、精神分析家ヴォルヘルム・ライヒが発見した性エネルギーのことで、そのオルゴンを蓄積する装置が「オルゴンボックス」です。
 ライヒは、このボックスに入れば病気が治ると主張しましたが、米国食品医薬品局より不法製造で訴えられ、投獄され獄死しています。
 いわゆる擬似科学であり、ライヒを狂人扱いする人もいます。しかし、なかには支持する人もいて、日本でも『セクシュアル・レボリューション』をはじめとした多くの著作が出版されています。

『オルゴン・ボックス』は、簡単にいってしまえば、ライヒの説に着想を得たエロティックコメディです。といっても、フェスタ・カンパニーレだけあって、設定を聞いただけですべてを見通せてしまうような薄っぺらい作品ではありません。

 西暦二〇〇〇年、石油・石炭・ガスなどの資源が枯渇し、中世に戻ったローマ。高速道路を駅馬車が走り、航空機は遺跡と化しています。
 地熱や雷など自然エネルギーの研究が行なわれるなか、中年の生物学者ミケーレは、ライヒの理論を応用し、セックスの際のオルガスムスからエネルギーを取り出す方法を見出そうと実験(被験者のセックス)を繰り返します。
 最初は部下の医師や看護師に協力してもらいますが、より強いエネルギーを求め絶倫の男女(ホテルの副支配人で六十人のメイドを含めたあらゆる女性と性的関係のあるダニエーレと、十二人の子を持つ主婦フランチェスカ)を探し出し、無理矢理性交させようとします。最初は抵抗していたふたりでしたが、一度交合した後、真実の愛に目覚めます。

 セックスからエネルギーを得られるとしたら、仲のよい恋人や夫婦を実験台にすれば済むわけですが、赤の他人をあの手この手でセックスに導こうとするところが、笑えるとともに、エロチックな想像を膨らませるツボにもなっています(そもそも、夫婦間のノーマルなセックスを扱ったエロ小説なんてあり得ない?)。
 ミケーレたちは、人類の未来のため、また科学の発展のため、大真面目に馬鹿馬鹿しいことをやっており、彼らが必死になればなるほど、読者はおかしみを感じます。エロも笑いも作り手がふざけていては駄目で、本気で取り組まないと目も当てられないものができあがってしまいます。

 こういう小説で、もうひとつ大切なのは、些細でも構わないので、下らなくて羨ましいアイディアが豊富に盛り込まれていることです。
 例えば、僕は、フェスタ・カンパニーレの映画では『裸のチェロ』が一番好きです(単に、この映画のラウラ・アントネッリがやたら可愛いだけかも知れないが)。そのなかに、妻の裸を他人にみせることで快感を得るようになった夫が、全身タイツを妻に着せ、爪先のちょっとした怪我の治療のため、医院に連れてゆく場面があります。要するに、爪先を診療するだけなのに、医師の前で全身タイツを脱ぎ全裸にならないといけないというネタなのですが、細かいけれどよくできていると感心しました。

『オルゴン・ボックス』でも、馬鹿な設定が沢山出てきます。
 ダニエーレとフランチェスカを救急車で引っ掛け(ガソリンは少しだけ残っており、特別な車両は使える)、無理矢理同室に入院させ、検査と称して相手のみている前で全裸にさせたり、ダニエーレに白衣を着せて、女性の身体測定(なぜか全裸にして、陰毛や乳首まで測定する)を手伝わせたりと、昭和のお色気漫画でもあり得ない状況が広がります。
 さらに、ふたりの性交を盗みみるために、企業の社長や大学の学長、はては副総理やノーベル賞受賞者までもが一か月も前からホテルの従業員に成り済ますというはしゃぎぶり。
 まあ、男の性的な妄想なんて、こんなもんでしょう。思いっ切り馬鹿げているからこそ共感もできるというものです。
 ちなみに、一番笑えるのは「三十世帯が住むアパート。そこに住む奥さん三十人は全員、月に一回門番と浮気している。三十一日ある月は門番は一日休めるが、二月は二十八日しかないので諍いが起こる。でも、まあ、何とか解決している」という箇所です(どう解決するというのか!)。

 一方、フェスタ・カンパニーレの批判精神も忘れてはいけません。この小説のミソは、恋愛やセックスを、冷静な第三者が常に監視しているところにあります。
 これは覗き趣味云々ではなく、当事者がどんなに真剣であろうと熱く燃え上がろうと、他人からみれば恋も性も滑稽でおぞましいものであることを表現しているのではないでしょうか。理屈をつけても、やってることは動物と変わらないわけです。

 実際、オルガスムスが最高のエネルギーを作り出すものの、そこに愛情は無関係であることが物語の後半、明らかになります。エンジンと同じようにピストン運動こそが大切で、摩擦であれば素股でも自家発電(マスターベーション)でも構わないのです。
 逆に、愛のある恋人たちはセックスをしなくなってしまい、愛し合うことが法律で禁止されてしまいます。
 こうなると、人間のための機械を動かすエネルギーが大切なのか、人間はエネルギーを生み出す機械なのか、分からなくなってきます(性のモラルの転換、セックス不能な者に対する差別の問題も起こりうる)。

 そんなことになるくらいなら、電気もガスもない暗闇で、好き勝手にセックスをしていた方がどれだけ幸福でしょう。
 原始的な暮らしに戻るといって悲嘆する必要はありません。動物と違って、人間には想像力がありますから、相手の顔もみえないくらい真っ暗ななかで、アゴスティナ・ベッリでもアントネッリでもカトリーヌ・スパークでもコリンヌ・クレリーでもお好きな裸体を思い浮かべればよいのです。

 さて、妄想する余地でいえば、ポルノ映画よりもポルノ小説の方が遥かに大きいわけです。
「俺のエロい妄想は、バーチャルリアリティ技術を駆使したアダルトコンテンツにも負けねえぜ」とおっしゃる方には『SEX発電』よりも『オルゴン・ボックス』を断然お勧めします。

※:邦訳はほかに、マッシモ・フランチオーザとの共著である『みんなが恋してる』しかない。

『オルゴン・ボックス ―SFセックス・エネルギー計画』千種堅訳、集英社、一九七八

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