読書感想文(関田 涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『愉しき放浪児』ヨーゼフ・フォン・アイヒェンドルフ

Aus dem Leben eines Taugenichts(1823)Joseph von Eichendorff

 古典ですので、様々な出版社から発行されていますが、安価で入手しやすいのは岩波文庫版です。一九三八年に発行され、一九五二年に改訳され、一九九一年に復刊されています(※)。現在は品切れのようですが、古書店でもよくみかけますし、そのうちまた増刷されるでしょう。
 なお、より原題に近い『なまけもの』『のらくら者』『のらくら者日記』『のらくら者の生活より』『気まぐれ者』といった邦題もあります。こうしてタイトルを並べると「どんだけ怠け者なんだ」という気がしてきますが、『物くさ太郎』のような話ではありません。

 主人公の青年は、父親に「のらくら者」と詰られたのをきっかけに旅に出ます。
 美しい令嬢に出会い、適当に口にしたウィーンに赴くと、そこで園丁見習いや収税吏として働きます。その後、青年はイタリアに向かって旅立ち、道中、ふたりの画家に出会います。ところが、画家はいつの間にか姿を消し、青年はひとり取り残されてしまいます。
 やがて、ローマを経て、ウィーンに戻った青年に、大きな幸運が舞い込んできます。

『愉しき放浪児』は、古典の大らかさと、現代小説にも通じる新しさを見出せる作品です。
 古典的といえるのは、全体を覆う雰囲気でしょうか。アイヒェンドルフは、『影をなくした男』のアーデルベルト・フォン・シャミッソーや、『陽気なヴッツ先生』のジャン・パウルなどと同じく後期ロマン主義に分類されるそうですが、なるほど似たような素朴さを持っています。牧歌的なファンタジーというか、呑気な教養小説というか……。
 勿論、そうした点は短所ではなく、古典を手に取る楽しみのひとつです。鷹揚さに心が癒されるからです。訳が古く、旧漢字が使われているのも個人的には○です。

 一方、今読んでも古さを感じさせない理由は、物語の構造にあります。
 短編ではないので「ミステリーっぽい短編小説」では取り上げませんでしたが、よくできたミステリーの一種といえるかも知れません。
 といっても、殺人事件が起きるわけでも、探偵が登場するわけでもなく、読者に対する謎が効果的に使われているという意味ですが。

 例えば、旅に出た主人公がまず出会うふたりの美女は何者なのか。また、主人公を置き去りにしたふたりの画家とは誰なのか。イタリアの山荘に閉じ込められそうになったのはなぜなのか。読者にはさっぱり分かりません。
 主人公の行動には理解しにくい点が多いため、これらも古典文学のゆるさのひとつかと思いきや、意外や意外、ラストでは全ての謎がスカッと解けるのです。
 それは推理小説なら最低限のことなのですが、合理性とは対極にあると思っていたドイツロマン主義文学だからこそ、そのギャップに驚かされるのです(『影をなくした男』なんて、最後はとんでもない方向にいってしまう)。

 といいつつ、突っ込みどころも多いんですが、ま、余り理詰めでも詰まりませんから、これくらいがちょうどよいような気がします。
 何しろ「こうして何もかもめでたしめでたしだった」で終わる小説なんて、今やどこにもありませんからね。

※:余談だが、僕の本棚における「岩波文庫〈赤〉」の割合は、かなり高い。「海外文学中心」「エンタメ小説を余り読まない」「古典好き」といった読書傾向なので、ある意味、必然といえる。地下牢に幽閉され、「岩波文庫〈赤〉しか読ませないぜ」といわれても、一生退屈せずに過ごせるような気がする……。

『愉しき放浪児』関泰祐訳、岩波文庫、一九五二