読書感想文(関田 涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『スウィム・トゥー・バーズにて』フラン・オブライエン

At Swim-Two-Birds(1939)Flann O'Brien

 フラン・オブライエンは、マイルズ・ナ・ゴパリーン(Myles na gCopaleen)という筆名も有しており、そちらでは主にコラムニストとして活躍しました(※1)。
 一方、オブライエン名義の長編小説は四作あり、全てが邦訳されています。なかでも傑作の呼び声が高いのは初期の二作『スウィム・トゥー・バーズにて』と『第三の警官』(一九三九〜四〇年執筆。出版は死後の一九六七年)です。

 ただし、『スウィム・トゥー・バーズにて』は、単独の書籍がなく、読むためには「筑摩世界文学大系」の六十八巻を手に入れる必要があります。
 これには『第三の警官』だけでなく、ジェイムズ・ジョイスの『スティーヴン・ヒアロー』(『若い芸術家の肖像』の原型)までもが収録されており、「ラーメン+餃子+チャーハン」並みの強力セットとなっています(※2)。それ故、古書価格が高く、そもそもなかなか市場に出ないので、定価(本体六三〇〇円)程度で、函、帯(函全体を包んである)、月報付がみつかれば、迷わず買いです。
 難点は、今時珍しい三段組のため判型が大きく、寝転がって読めないことですが……。

 さて、以前、「代表作がふたつある作家の場合、どちらをとるか決められない」と書きましたが、上記二作も甲乙つけがたい。
 個人的には『スウィム・トゥー・バーズにて』の方が好みではあるものの、「『第三の警官』こそベスト」という声が多いことも知っています。ま、こんなことで悩んでいても仕様がないので、両方とも取り上げることにします(ただし、長くなるため、二度に分ける)。

 大学に通うため、ダブリンの伯父宅に居候している「ぼく」。
「ぼく」は、ダーモット・トレリスという作家が登場する小説を書いています。そのトレリスは自分が作り出した登場人物との間に息子をもうけます。
 ところが、トレリスは逆に、息子によって小説のキャラクターにさせられ、手ひどく痛めつけられた上、裁判にかけられてしまうのです。そんな彼を救ったのは、暖炉に原稿用紙をくべた女中でした。

 小説において「何を語るか」は最早どうでもよく、「いかに語るか」にしか興味のない僕にとって、メタフィクションは最高のご馳走です。この作品は、作中だけで三階層(息子の小説にトレリスが登場するため四階層か? オブライエン自身も含めると五階層になる!)という複雑さがさらに嬉しい。
 階層が増えれば増えるほど物語は多様化します。しかも、「ぼく」もトレリスも作家なので知識も想像力も豊かであり、アイルランドの伝説的英雄、カウボーイ、魔物、妖精などが自由自在に入り交じります(「スウィム・トゥー・バーズ」とは「二羽の鳥が泳ぐ場所」という意味のアイルランド語の地名「スナーヴ・ダー・エーン Snámh dá Én」を英語にしたもので、狂王スウィーニーの物語に登場する)。
 それぞれのエピソードや会話はとても楽しく、ごく普通の小説なら、これがメインディッシュになるでしょう。

 なお、トレリスたちの階層と、その下の登場人物の階層は、監督と役者のような関係になっています。会話は勿論、妊娠させることもできるくらいですから、同じ階層(同じホテル)に住んでいるらしい……。その癖、キャラたちは、自分たちが作家の手によって突然生み出されたことを知っているのです。
 この辺の設定は曖昧なのですが、この小説はそもそも「フィクションに関するフィクション」、つまり「どのような技法や形式で語るか」「そして、それは成功しているのか」を考えるための小説であるため、「何でもあり」の方が、議論の幅が広がってよいのです。

 では、『スウィム・トゥー・バーズにて』において、メタフィクションであることは、一体いかなる意味を持つのでしょうか。
 前述の如く、古代の英雄から現代の労働者まで脈絡のない登場人物による馬鹿騒ぎは、アイルランド(エリン)の歴史をなぞっているともいえますが、それだけであればメタフィクションの体裁をとる必要はありません。妄想やタイムスリップなどといった設定でも十分目的を果たすことができるからです。

 となると、ここで鍵となるのは、作中でも述べられているとおり、良質な小説とは「紛うかたなき紛い物」であるべき、という作者の主張です(※3)。
 メタフィクションは、自己言及の文学であるとともに、作品の虚構性を強調する仕組みをも所持しています。
 オブライエンは、作中作という、どう転んでもフィクション以外には認識されない枠組みを用い、そこに使い古された英雄や神、あるいは他人が作り出したキャラクター(トレリスと同じ階層における別の作家が考えた人物)をちりばめることで、これ以上ないくらい「虚構らしい虚構」を作り上げました。

「だから何なんだ?」という声に答える必要はありません。
 小説なんて、何の意味があるのか、よく分からないけど、思いついたことを片っ端から試してみればよいのではないでしょうか。
 そうすれば、時間はかかるかも知れないけれど、変なものをありがたがる僕のような読者に必ず届き、「ああ。やっぱ小説を読むのって楽しいなあ」と思わせることになるはずですから。

 最後に、『スウィム・トゥー・バーズにて』は、ジョイスの影響(『若い芸術家の肖像』『ダブリナーズ』『ユリシーズ』)を色濃く感じる作品です。しかし、運の悪い(?)ことに、同じ年に出版されたのが、あの『フィネガンズ・ウェイク』でした(雑誌には既に掲載済み)。
『スウィム・トゥー・バーズにて』も相当に変わってはいるものの、『フィネガンズ・ウェイク』にはとても敵いません。全然売れず、無視され、復刊まで長い年月が経ったのは、『フィネガンズ・ウェイク』のせいでもあった……なんて考えすぎでしょうかね(※4)。

追記:二〇一四年十月、白水社から復刊されました。

※1:本名のブライアン・オノーラン(Brian O'Nolan)、またはそれを略したブライアン・ノーラン(Brian Nolan)の名前も用いた。

※2:『ドーキー古文書』は、集英社の「世界の文学」16巻に、ミュリエル・スパークの『マンデルバウム・ゲイト』とともに収められている。この組み合わせも実に素晴らしい。

※3:何と、オブライエンは、一九六一年の『ハードライフ』において、全く逆のことをやった。『ハードライフ』のエピグラフには「この作品の登場人物はすべて現実に即しており、虚構によって仕組まれた者はひとりとしていない」と書かれているのだ!

※4:『ドーキー古文書』にはジョイス自身が登場し、『フィネガンズ・ウェイク』について語る。


『スウィム・トゥー・バーズにて』筑摩世界文学大系68、大澤正佳訳、筑摩書房、一九九八

→『第三の警官フラン・オブライエン