読書感想文(関田 涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『アリスのような町』ネヴィル・シュート

A Town Like Alice(1950)Nevil Shute

 前回同様、『アリスのような町』も『不思議の国のアリス』とは無関係です。
 それどころか、この小説でのアリスは人名ですらなく、オーストラリアのど真んなかにあるアリススプリングス(the Alice、ないしは単にAliceと呼ばれる)を指します。

 かつての我が国において、ネヴィル・シュートは、終末ものの傑作『渚にて』の作者としてのみ知られていました。そのせいでシュートの小説を読んだことがない方は、彼をSF作家だと思ったのではないでしょうか。
 ところが、二十一世紀になって『パイド・パイパー(さすらいの旅路)』が復刊され、人気を博しました。それでようやく、シュートの経歴(航空技師から作家になり、戦後はオーストラリアに渡り住んだ)や、戦争や航空機に関する小説が多いことが知られるようになりました。

『アリスのような町』も『渚にて』や『パイド・パイパー』同様、戦争と無関係ではありません。
 まずは、あらすじを紹介します。

 英国人女性ジーン・パジェット。彼女は第二次世界大戦中、英領マラヤで日本軍の捕虜となりました。女性や子どもたちは収容所がないため、ひたすら徒歩でマラヤ中を彷徨う羽目になります。感染症、蛇や蠍の神経毒、栄養失調、疲労などで弱った女と子どもは次々に命を落とします。それでも、理不尽な行進は終わりませんでした。
 戦後、伯父の莫大な遺産を相続したジーンは、お世話になった村に井戸を掘りに戻ります。その際、捕虜たちに親切をしたせいで処刑されたと思っていたオーストラリア人の青年ジョー・ハーマンが、今も生きていることを知り、オーストラリアへ向かいます。
 ところが、ジョーはジーンに会いに英国へいっていました。すれ違ったふたりがようやく出会ったのはケアンズでした。

 この小説は一九五六年に映画化されました(『マレー死の行進/アリスのような町』)が、日本政府の抗議によりカンヌ国際映画祭への出品が取りやめになったそうです。
 勿論、マラヤでの捕虜の行進が問題視されたためです。バターン死の行進に加えて、こんなことまで事実だと思われたら堪らないと思ったのでしょう。

 そう、『アリスのような町』は歴史的なできごとを元にしているわけではないのです。
 シュートは「一九四二年、マラヤにおいてイギリス人女性が日本軍によって強制的に行進させられたのは事実ではない。しかし、実際にスマトラでオランダ人女性たちが二年半に亘り千九百キロも行進させられ、八十人のうち五十人が亡くなった」と語ります。
 ところが、これは全くの誤解で、行進の事実などなく、単に別の俘虜収容所に移送させただけだそうです。
 そのため、シュートの意図はともかくとして、今では『アリスのような町』は完全なフィクションと認識されています。

 とはいえ、日本軍は明らかに悪役として描かれています。
『パイド・パイパー』におけるナチスのフランス侵攻とは異なり、ありもしないできごとを元に創作されるのを面白く思わない日本人もいるでしょう。また、飽くまで小説として評価したとしても、一歩間違えると自虐史観とも捉えられ兼ねません。
 シュートの代表作とされながら、大手の出版社から刊行されなかったのは、そういった理由があるのではないでしょうか。
 訳本は近代文藝社より発売されており、訳者の経歴、ペンネーム(回文になっている)、あとがきなどから推測すると、書店注文可能な自費出版と思われます。正直、誤字・脱字も多く、原稿整理も甘く、文章も上手ではないため、決して読みやすくはありません。

 しかし、そんなことよりも問題なのは、本の入手方法です。
 オクテイヴィア・E・バトラーの『キンドレッド』も小さい出版社故、手に入れにくかったのですが、十五年以上前の、恐らく発行部数もそれほど多くないと思われる自費出版の本をみつけるのはそれ以上に厄介です。
 値段さえ気にしなければ、インターネットを介して欲しい古書がすぐ手に入る時代になったとはいえ、『アリスのような町』に関してはネットでもほとんど見掛けません。そのため、運よく発見したら購入を検討する価値は十分あると思います。
 ちなみに僕は、訳者の義理のお姉さんが知人へ謹呈した本をみつけ、千円台だったので購入しました(写真)。こういうものじゃないと、市場に出にくいのかも知れませんね。

 さて、随分と遠回りしましたが、感想に移りたいと思います。
 実をいうと『アリスのような町』は大きくふたつのパートに分かれており、日本軍による死の行進は前半でおしまい。
 寧ろメインは、アウトバックオーストリア内陸部の人口希薄地帯)にあるウィルスタウン(Willstown)を「アリススプリングスのように活気のある町」にするために尽力する若いカップルの物語の方です。

 ウィルスタウンは、ゴールドラッシュの頃は人口が三万人を超えましたが、今や住民は百人足らずの寂しい町です。特に女性は働き口がないため町を出ていってしまい、男五十人に対し、女ふたりという歪さが問題になっています。
 ジーンは、そこで鰐革の靴の工場やアイスパーラーを経営し、女たちに雇用と生き甲斐と娯楽を齎そうとします。やがて、その女性たちは町の男と結婚をし、家族が増え、町が栄えるという仕組みです。

 シュートの小説の最大の魅力は、登場人物たちの生き様にあります。
 彼らは、極限状態に陥っても、取り乱したりパニックになったりせず、いつもどおり地に足をつけて生きてゆくことが多い。ドイツ軍の侵攻によっていつ死んでもおかしくない状況(『パイド・パイパー』)でも、核戦争による放射性物質が地球を覆い、残された時間が少なくなっても(『渚にて』)、人としての尊厳をなくしません。

 例えば、『パイド・パイパー』は、フランスに釣りにいった英国人のハワード老人が、国籍の異なる子どもたちを連れてイギリスへ脱出する話ですが、ハワードにしても、戦士した息子の恋人であるニコルにしても赤の他人のために命をかけます。
 また、『渚にて』で、米国の原子力潜水艦の艦長であるタワーズ大佐は、オーストラリアで互いに魅かれ合う女性ができます。しかし、人類の滅亡まで残り僅かとなっても、彼女と深い関係にはなりません。アメリカに残した妻子は恐らく既に亡くなっているにもかかわらずです。
 どんな状況においても人の道に外れたことはしないという誠実な生き方には、心が洗われます。

 勿論、『アリスのような町』でも、それぞれが名に恥じない生き方をしています。
 ジーンは、捕虜のときは得意のマレー語を操り現地の人と交渉し、同時に仲間たちを必死に励まし、子どもたちには勉強を教えることまでしていました。お金が手に入った途端、貧しい村へ飛び、女たちのための井戸作りに奔走します。
 さらに彼女の情熱は、ウィルスタウンに向けられます。そこでは、ほとんど乗ったことのない馬を四十マイルも走らせ人を助けたことで、町の人々の信頼を得たのです。

 一方、ジョーは、英国人女性がアウトバックに嫁ぐことなど無理だとして、一度はジーンを諦めようとします。しかし、彼女がウィルスタウンの開発に積極的であると知ると、文字どおり身を粉にして働きます。
 ふたりの恋愛がこの小説の軸になっているのは間違いありませんが、ベタベタしたりせず、ひたすら真面目に町の開発に取り組むのですから、恐れ入ります。

 そのほかの登場人物も、読んでる方が恥ずかしくなるくらい清廉な者ばかり。
 遺言信託者である弁護士事務所の社長ノエル・ストラッチャン(この物語の語り手)とジーンは歳が離れているせいか、互いに尊敬し合い、礼節を弁えて接します。それは『パイド・パイパー』のハワードとニコルの関係によく似ています。
 ストラッチャンが年甲斐もなくジョーに嫉妬する場面(ジーンがオーストラリアにいることを伝えて、ジョーを飛行機に乗せれば、ふたりはもっと早く会えた)もありますが、大金を相続した依頼人の安全を第一に考える弁護士としては当然の行動ともいえます。
 その上、ストラッチャンはジーンたちの借地権の交渉をするため、老体に鞭打って自腹でオーストラリアまで出向いたりと、長い間、彼女の力になり続けるのです。

 さらにシュートは、悪役に設定した日本軍も、雑には扱いません。
 作戦自体は憎むべきものですが、個々の軍人は誠実で心根の優しい人物として描かれます。残虐な大量殺人者として処刑されたスガモ大佐にしても、ジョーを殺さずに助けてくれたわけで、ジーンにとっては心底憎める相手とならないのです。

 唯一、アボリジニに対してはやや蔑んだ表現がみられますが、一九五〇年という時代を考えるとやむを得ない気もします(白豪主義は一九七〇年代まで続いた)。

 前半と後半でまるで違う話になってしまうなど、小説としての完成度はそれほど高くないかも知れません。
 けれど、シュートの作品は、人間らしく生きるとはどういうことなのかを考えるきっかけになってくれます。心が揺らいだとき、ぜひ手に取ってほしい一冊です。

『アリスのような町』小積光男訳、日本図書刊行会、二〇〇〇