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読書感想文(関田 涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『蜜の味』シーラ・ディレーニー

A Taste of Honey(1958)Shelagh Delaney

 十代でデビューした女流作家というと、フランソワーズ・サガンを真っ先に思い出す人が多いと思いますが、シーラ・ディレーニーもサガンと同じ十八歳で世に出ました(作家というより脚本家だが)。
 残念ながら輝きは一瞬で、今ではその名はほとんど忘れ去られています。

 尤も、サガンやメアリー・シェリー、カーソン・マッカラーズのように、若くして世に認められ、しかも、文学史に永遠に名を残す女性の方が稀なのでしょう(デビューは遅かったが、ジェイン・オースティンの十代の頃の習作が訳されているので読んでみた。やはり、並の才能ではない……)。

蜜の味』が上演された一九五〇年代のイギリスの演劇界は、サミュエル・ベケット、ジョン・オズボーン、ハロルド・ピンターらが登場し、新しい波が起こっていました。
 十代の少女が脚光を浴びたのは、そんな時代の流れ、そして、名もなく若い才能を見出そうとしていたシアター・ワークショップの主宰者ジョーン・リトルウッドとの出会いのお陰だったのかも知れません。

 ちなみに、一九一九年にイギリスで、デイジー・アシュフォードという女性が九歳の頃書いた『The Young Visiters』という小説が出版され、ベストセラーになったそうです(ポール・ギャリコの『猫語の教科書』の「編集者のまえがき」でも触れられている)。
 ただ、アシュフォードの場合、本が出版されたとき三十八歳で、すでに小説は書いていませんでしたし、『The Young Visiters』も文学的価値が認められたのではなく、子どもの無邪気さや綴りの間違いが話のネタとして話題になったわけです。
 日本でいうと『天才えりちゃん金魚を食べた』とか『殺人ピエロの孤島同窓会』みたいな感じでしょうか。

 さて、ディレーニーは、いわゆる「キッチンシンクリアリズム(Kitchen Sink Realism)」に分類される劇作家です。
 キッチンシンク派は、労働者階級の若者たちをスラングなどを駆使して描く点で「怒れる若者たち(Angry Young Men)」と共通しています。まあ、「台所の流し台」っていうくらいですから、よりドメスティックなのが特徴ということなのでしょう。

 ランカシャー州工業都市。場末のアパートに、セミプロの娼婦ヘレンとその娘ジョーが引っ越してきます。しかし、ヘレンは若い情夫ピーターと再婚し、ジョーを残して去ってゆきます。
 一方、ジョーは、黒人水兵のボーイの子どもを妊娠しますが、彼とは別れたらしく、今はジェフという青年と一緒に暮らしています。
 そこへ、男に捨てられた母親が戻ってきて、ジェフを追い出してしまいます。ところが、生まれてくる赤ん坊の父親が黒人だと知ると、母はそそくさと逃げ出してしまいます。

 ドラマツルギーや演劇的言語なんてどこ吹く風。しかも、小説と違って情景描写も心理描写も不要ですから、文学的訓練を受けていない若い女性でも、感性だけで仕上げることが可能だったのでしょう。
 実際、『蜜の味』のどこが素晴らしいのかというと、やはりティーンエイジャーの目を通した「リアル」が描かれている点に尽きます。
悲しみよこんにちは』は父と娘の関係に焦点が当てられていましたが、『蜜の味』は母と娘の確執がテーマとなっています。

 といっても、ディレーニーが作り出した世界は、カラカラに乾いた都会の砂漠でした。
 二幕四場構成ですが、舞台はほとんどがアパートの室内です。また、五人の登場人物たちは社会性がほとんどなく、感情を激しく表現することもありません。
 例えば、主人公のジョーは、母の仕事を不潔と詰ったり、各地を転々とする生活で碌に学校にも通えないことを恨んだり、会ったことのない父親について教えてくれないことを怒ったりしません。大人びているというか、人間味が感じられないほど冷め切っています。
 ドライなのは母も同様です。ふたりが罵り合う様は飽くまで口先だけといった感じで、大してかかわりのない他人のように素っ気ないのです。

 彼らがそうなってしまったのは、明らかに愛(家族愛、母性愛)の不足が原因といいたいようです。ジョーが「愛ってよくわかんない」「愛なんて大きらい」などと臭い科白を吐くのも、そのせいです。
 これを若書きといって苦笑することもできますが、愛と性を照れずに正面から扱えるというのも若さ故の特権だと思います。
 そして、それこそが虚構としての「リアル」に結びつくのです。

 つまり、大人たちは、「現代の十代の女性は、こういうテーマで、こういうことを書くべき」と信じていて、『蜜の味』はそれに則していたからこそ、世に送り出され、広く受け入れられた……なんていうと意地悪すぎるでしょうか。

 正直、戯曲としては未熟さが目立ちます。しかし、技巧に走らなかった分だけ、一九五〇年代の貧しく、何も持たない若者たちの声が生々しく伝わってくるのも確かです。
 若ければ希望に満ちているなんてのは嘘っぱちで、実際のところは、先が長い分だけ絶望も深いのが常なのです。
 彼らの叫びは、半世紀以上がすぎた現代人とも響き合うように思います。

 なお、『蜜の味』は一九六二年に映画化されました。日本版の表紙は、その映画でデビューしたリタ・トゥシンハムのアップ写真が使われています。

蜜の味小田島雄志訳、晶文社、一九七〇