読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『フランス軍中尉の女』ジョン・ファウルズ

The French Lieutenant's Woman(1969)John Fowles

 子どもの頃、夏休みに読書感想文を提出させられましたが、嫌で嫌で仕様がありませんでした。過去形になっていますが、実は今でも好きじゃない。いろいろ理屈をつけてますけど、サイトで書評をしないのは単に不得意だからだったりするんですよね。
 そもそも「本を読んで感じたことを書け」なんて誰がいい出したんでしょう。大人でも難しいのに、子どもにそれをやれというのは無茶というものです。第一、そんなことをさせて、将来、何かの役に立つのかしら(書評ブログでもやるようになったら少しは役立つか)。本を読んだからといって、文章にして頭のなかを整理したり、自分の思いを他人に伝えたりしなくても、「ああ、面白かった」でいいと思うんですけどねえ。

 というわけで、僕の「読書感想文」がどれだけ下手で、とりとめがないか、実例をあげてみましょう。
 以前、書き手としてメタフィクションに魅かれるのは説明しましたが、「読み手は、それのどこを面白がればいいのか」に触れませんでしたので、感想文の体裁を利用して、述べてみることにします。
 何の本を取り上げるかは、ちょっと迷ったんですが、これまでときどき話題にしていたジョン・ファウルズの『フランス軍中尉の女』(写真)を選んでみました。
 確か初めて読んだのは高校生の頃だったから「読書感想文」として相応しいですし、ちょうど読み返したいと思っていたところでもありました。

 物語の舞台は、ヴィクトリア朝中期(日本でいうと幕末頃)、英国の港町ライム・リージス。ここにやってきた貴族の男性が「フランス軍中尉の娼婦」と呼ばれる謎の女性セアラと出会います。彼には結婚間近の婚約者がいるのですが、まあ、お約束のようにミステリアスな女性に魅かれてゆきます。
 ちなみに、巻末の「訳者あとがき」によると、この本は英国で三百万部も売れているそうです(一九八二年当時)。時代小説としても楽しめるので(っていうか、そういう見方の方が普通かも)、人気があったのも納得ですが、逆にいうと日本人の多くは、この時代の英国にそれほど思い入れはないかも知れません。

 さて、ファウルズは、背景となる百年前(ファウルズが執筆したのが一九六七〜六九年)の英国について、政治、事件、産業、流行、風俗、価値観などあらゆる事象を、こと細かく描写、説明します。勿論、この時代に活躍した実在の人物も登場しますし、各章の頭にはハーディ、テニスン、オースティンなど当時の文学作品からの引用が数多く掲載されています。
 おまけに本文は、古典的な自然主義リアリズム小説の手法を用いるという念の入れようで、読者は十九世紀の作品を読んでいるかのような錯覚に陥るはずです(尤も、ところどころ、わざとらしく原子爆弾が出てきたり、『ケネディ大統領の死』からの引用があったりするので、実際は引っかかったりしないけど)。
 現代小説を読み慣れている人は、描写にも物語の進行にも間怠っこさを覚えるかも知れませんが、裏を返せばパロディとしてそれだけ秀逸ってことですから、ニヤニヤしながら読みましょう。

 が、「ファウルズはヴィクトリア朝時代を見事に復元した」とか、「自然主義文学の優れたパロディだ」なんてことはおいといて、やはり注目したいのはメタフィクショナルな仕掛けの方です。
 時代小説の体裁をとりつつ、作中の語り手は、当時の人々の視点に現代の視点を加え、それによって時代が今とは遠く隔たっていることを強調します。先に述べた原子爆弾など未来に関する記述も同じことを狙っているわけですね。
 これは作品のテーマのひとつ「偽善的な道徳に満ちた時代に、娼婦として蔑まれた女性がいかに生きたか」だと思いますし、この手の記述は普通の歴史小説でもよくみられます。
 しかし、例えば十三章では、作者の分身と思しき語り手が前面にしゃしゃり出てきます(物語の後半には登場人物となって現れたりもする)。そして「私がいま語っているこの物語はすべて想像の所産である。私が造りだしている人物たちは、私の頭脳の外においては存在しなかった」なんてことをわざわざ書いてくれちゃうのです。
 十三章というのは、まだ序盤で、ようやく主要な人物の紹介が済んだところです。つまり「さあ、これから一八六七年の英国を堪能しようか」というときに突然、現実に引き戻されるわけで、大いに戸惑うとともに、「ははーん。どうやらこれは普通の小説じゃないな」と身構えることになります。
 そして、有名な三種類のオープンエンディングにつながってゆくわけですが、この辺りになると、自分がどういったスタンスで、この物語やキャラクターとかかわればよいのか、甚だ不明瞭になってきます。至るところに嘘を際立たせる仕掛けがありますし、作者の語りには大いに迷いが感じられる。また、読者に作品への介入を促しているようにも思えるからです。

 百年前の英国をマニアックなまでに再現する一方で、虚構性を強烈に意識させる。
 これに、どんな意味があるのかというと、ひとつにはアンチリアリズムとしての装置とか、作品自体に批評性を持たせるといった役割があげられると思います。
 けれども、読み手にとって、そんなことは正直どうでもよいでしょう。
 物語内の階層や、異なるふたつの時代を自在に行き来しつつ、選択されなかった未来、すなわち虚構中の虚構ともいえる世界が当たり前のように提示されるため、読者はあたかも主人公の運命を左右できる、つまり作者(神)になったような気になります。
 一方、終盤になって唐突に、作者の分身が登場人物と同じ階層に降りてきます。そして、主人公の行動に影響を及ぼすかと思った途端、主張を翻し、架空の人物の自律性を尊重し記録係に徹するといって、途中で物語を放り出してしまうのです。
 それによって、枝分かれした物語の決定稿ともいえるエンディングは、たまたま選ばれた道という意味しか持たなくなってきます。ほかの開かれた結末との明確な差はありません。
 また、そのどれもが登場人物にとっては紛れもない現実です。彼らは、当然ながら「自分は虚構内の存在ではないか」などと悩んだりはせず、思うまま行動をし、やがて舞台から姿を消してしまいます。
 そのため読者は、作者も登場人物も不在な虚構のなかに、ぽつんと取り残されることになります。精密に組み立てられた世界が次第に溶け出し、空虚で不安で、いても立ってもいられなくなるのです。
 頭で考えるのではなく、虚構をごく身近なものとして感じる。
 これこそが、フィクションの持つ威力が最大に発揮される瞬間であり、僕にとって小説を読む最大の楽しみです。
 徹底的にリアリティにこだわり、なおかつ嘘っぽさを満遍なく振りかけてあるからこそ、こうした感覚が得られたのでしょう。荒唐無稽な設定やストーリーだったら、こうはいきませんし、読者をこの域にまで巧みに誘導する語り口があってこその効果だと思います。
 単に物語や架空の世界に浸ったり、登場人物に感情移入するだけなら、長い時間をかけて五十万にも及ぶ活字を追い、文字という記号だけを頼って脳のなかにイメージを作り出すなんて、途轍もなく面倒臭いことをする必要はありません。演劇や映画や漫画やゲームの方が多分、もっと楽ができますもの(などといいつつ、この作品、ハロルド・ピンターの脚本で映画化もされている。映画はみていないが、小説とは全くの別ものと考えた方がよいかも)。
 ごく稀に、こうした作品に出会えるから、小説を読むのはやめられないんですよね。

 と、まあ、こんな感じですが、結局「読書感想文」とは、かけ離れたものになりました。
 やっぱ駄目だな。

フランス軍中尉の女』沢村灌訳、サンリオ、一九八二

→『ダニエル・マーチン』ジョン・ファウルズ

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