読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『その男ゾルバ』ニコス・カザンザキス

Βίος και Πολιτεία του Αλέξη Ζορμπά(1946)Νίκος Καζαντζάκης

 前回は「未訳の作品が翻訳出版される条件」を書きましたが、過去に翻訳された小説が復刊されたかと思うと、有名人が取り上げていたり、人気のアニメやドラマ等で扱われて話題になっていた、なんてケースが多いように感じます。
 世情に疎いので知らなかったんですが、ニコス・カザンザキスの『その男ゾルバ』(写真)は、村上春樹の作品に登場し、求める人が増えたみたいです(映画『全身小説家』で、井上光晴の書斎にこの本が置いてあったが、関係ないか)。ひょっとすると、僕が購入したのも、それによって復刊されたときだったんでしょうか(一九九六年の第四版。尤もこの本の場合は絶版ではなく、ときどき重版されていたようだが)。
 何はともあれ、古い小説が手に取りやすくなるのはいいことです。

 亜炭鉱を経営するためクレタ島に渡ろうとした「私」は、港の酒場でマケドニア人のゾルバ(ゾルバス)と出会います。ゾルバは野蛮な労働者風の老人ですが、開けっ広げで自由な人柄、幅広い人生経験に基づく豊富な話題や教訓を有しています。それに魅かれた「私」は、炭鉱の監督として雇うことにしました。
 それから、クレタ海を望む美しい田舎町で、親子ほどの歳の差のあるふたりの共同生活が始まります。

 クレタ島では、坑道が崩れ危うく生き埋めにされそうになったり、村人が自殺したり、僧院で殺人事件があったり、肉感的な未亡人が村人にリンチされ首を切り落とされたりと、残酷で前時代的なできごとが次々に起こります。けれど、親友に「本の虫」とからかわれ、実際の恋愛よりも、物語のなかのそれを好む「私」にとっては、どれもが貴重な生の経験となるのです。
 それ以上に重要なのは、夜な夜なゾルバが語って聞かせる経験談です。「私」はそれを、まるでキリストや釈迦、孔子ニーチェらの言葉と同じくらいありがたく受け取ります。そもそも「私」はゾルバに出会った瞬間から心酔してしまうのですから、寧ろ神に近い存在といえるかも知れません。
 といっても、ゾルバは艶話が多く、そのなかにアフォリズムが含まれていたりするので、読者は肩肘張らずに読むことができます。

 要するに、都会のインテリが土着の人々に触れ、新しい境地を知るという話なのですが、こうした小説の生命線は、ゾルバやクレタ島民が魅力的に(あるいは野蛮に)描けているか否かではないでしょうか。
 作者によると、ゾルバは(マダム・オルタンスも)実在した人物らしいのですが、読者にとっては、そんなことどうでもよく、「こんな奴いねえよ」と突っ込みたくなるような荒唐無稽の人物であろうと全く構いません。が、実際は、教養とは無関係に真理を見抜く目を持った人物として造形されています。
「私」同様、本ばかり読んでいて、なるべく世間とかかわりを待たないように生きてきた僕としては、ゾルバの行動力、強引さ、潔さに、大いに魅かれました。若いときに、こういうおっさんが近くにいたら、人生は大きく変わっていたかも知れません。
 ……なんて書く時点で、自分から行動する勇気も才覚もなく、世界を変えてくれる他者を待つだけの奴だってことがバレてしまいますが、現実では永遠に訪れるはずのないできごとも、虚構のなかでは簡単に疑似体験できます。これも、小説を読む楽しみのひとつだと僕は思います。

 一方で、ゾルバの年齢に近くなった今となっては、六十五歳になってもなお「かごの中の肥えた雀になるぐれえなら、荒地のやせた雷鳥でいる方がいい」と嘯く彼は、憧れのジジイのひとりといえます。
 尤も、最期は惜しまれるのでも忘れられるのでもなく、「あいつが死んで清々した」といわれたいと思ってますけど……。

 また、この小説が世界中で読まれるようになったのは、過去の栄光はどこへやらの貧しい小国ギリシャの作品だからこそかも知れません。
 というのも、『その男ゾルバ』はビルドゥングスロマンとしてだけでなく、民俗学的紀行(と文学の中間?)としても楽しめるからです。実際、僕はこの手の作品に目がなく、アルフォンス・ドーデの『風車小屋だより』(1869)、日本のものだと山本周五郎の『青べか物語』(一九六〇年発行だが、作中の時代は一九二〇年代)とか、きだみのるの『気違い部落周游紀行』(1948)なんかがとても好きです。
 勿論、ある程度、現代と隔たりがある(少なくとも半世紀)方が好ましいことはいうまでもありません。っていうか、最早手垢のついていない土地なんて地球上のどこにもないですから、今後、この分野での傑作は生まれにくいでしょうね。
 そういう意味でも、とても貴重な作品だと思います。

その男ゾルバ』秋山健訳、恒文社、一九六七

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