読書感想文(関田 涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『台風の目』パトリック・ホワイト

The Eye of the Storm(1973)Patrick White

 未訳の作品(作家)を渇望している翻訳小説好きの希望は「翻訳者(または編集者)の情熱」と「映画化」であることは過去にも述べました
 が、もうひとつ重要な要素があって、それは賞、特に「ノーベル文学賞の受賞」です。ノーベル文学賞自体は全く信頼していませんが、受賞によって、大抵はその作家の小説のいくつかが新たに翻訳ないし復刊されることになります。
 パトリック・ホワイトがノーベル賞を受賞したのは一九七三年。以後、数冊の著作が翻訳されました。今回取り上げる『台風の目』もそのなかの一冊です(帯には大きな文字で「ノーベル賞受賞作品」と書かれている。写真)。

 なお、あらゆるものに、裏の面が存在します。希望の光が強ければ強いほど、その背後に存在する暗黒面は絶望に満たされているのです。
 邦訳された『台風の目』の最大の問題は……、この感想文を最後まで読んでいただけると分かるでしょう……。

 さて、オーストラリアの作家といってパッと思いつくのは、ホワイトのほかにはヘンリー・ローソン、ピーター・ケアリーグレッグ・イーガンくらいでしょうか(移住したJ・M・クッツェーを除く)。尤も、これは僕に限ったことではなく、日本でオーストラリア文学が話題になることは滅多にないのが現状だと思います。
『台風の目』は一見、国や地域の独自性をさほど感じさせず、まるで英国の小説を読んでいるようです。しかし、例えばフランスに嫁いだ娘の視点を通して「欧州から遠く離れた未知の国」であることが強調されるなど、オーストラリアを強く意識していることが伺えます(ホワイトはロンドン生まれで、少年時代はシドニーで過ごしたが、その後は三十代半ばまで英国を中心とした欧州で暮らした)。
 そう考えると、ブッシュを舞台にしたローソンとは違う意味で、非常にオーストラリアらしい小説といえるかも知れません。豪州が英国から精神的・経済的に独立し、米国やアジアとの結びつきを強める直前の微妙な空気が読み取れるからです。

 さて、『台風の目』の主人公ハンター夫人は、寝たきりの裕福な老婆。
 舞台は、ほぼ彼女のベッドサイドのみ。ハンター婦人が朝、目覚めるところから、物語は始まります。
 取り立てて事件は起こらず、ハンター夫人のベッドに入れ替わり立ち替わり現れる人々(息子、娘、看護師、弁護士、医師、家政婦ら)とのやり取りと回想で構成されています。
 タイトルからも分かるとおり、死期が近いハンター夫人を取り囲む世界は、一見台風の目のように穏やかですが、そのすぐ外側は人間の悪意やエゴが渦巻いています。
 断片的に挿入される回想から、登場人物の多くは善人とはいい難く、利己的であったり、背徳的であることが次第に分かってきます。

 殺人はおろか些細な争いすら起こらないので(目にみえるものは、だけど)、退屈に感じる方もいることでしょう。
 しかし、読みどころは、何といってもホワイトの丁寧な筆遣いです。
 正確で細微な描写、綱渡りのように危うい会話、また、内的独白も非常に効果的に用いられています(こういうところも英国の小説っぽい)。
 じっくり時間をかけて取り組むことによって、味わいはより深まってゆきます。

 というか、それをしないでストーリーを追いかけるだけであれば、ほとんど読む意味のない小説です。
 いえ、正確にいうと、邦訳された『台風の目』は、ということになるでしょうか。
 というのも……。

 何と、この本は、三章(およそ全体の三分の一程度)までしか訳されていないのです!

 そのことは、カバーにも、表紙にも、帯にも、大扉にも一切書かれていません。その上、巻末の訳者あとがきでも、物語が途中で終わっていることには全く触れられていない。つまり、本屋で立ち読みしたくらいでは欺瞞に気づくことのない仕掛けになっています。
 ただし、二刷の奥付には、こっそりと「台風の目(上)」とあるらしいです〔僕が持っている一刷の奥付には、意味ありげな「★」がついている(写真)。ひょっとすると、読者から苦情があって、慌てて(上)を加えたのかも知れない〕。

 売れゆき、あるいはそれ以外の要因で、続刊が発行されない本はいくらでもあります(拙作『怪盗パピヨン』も、そのひとつだが……)。また、抄訳や部分訳の本も、よくあります。
 しかし、何の断りもなく途中までしか訳さず、あろうことか、まるで一冊で完結しているようにみせかけて続きを出さない(そもそも出す意思がない?)本なんて、ほかに聞いたことがありません。
 ノーベル賞にあわせて無理矢理出版したため、こんなことが起こったのでしょうか。詳しい事情は分かりませんが、随分と読者を馬鹿にした話ではありませんか。

 というわけで、今回は「お勧めの本」ではなく、非常に珍しいケースなので取り上げてみました。
 ホワイトは『ヴォス―オーストラリア探険家の物語』など、ほかにも邦訳されている作品がありますので、そちらをお読みになった方がよろしいかと思います。

『台風の目』向井啓雄訳、三笠書房、一九七四