読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『ナボコフのドン・キホーテ講義』ウラジーミル・ナボコフ

Lectures on Don Quixote(1983)Vladimir Nabokov

 僕が読んだ小説の数なんて高が知れています。多めに見積もっても、精々五千冊といったところでしょう。
 それでこんなことを書くのは烏滸がましいのですが、もしオールタイムベストを選べといわれたら、ミゲル・デ・セルバンテス・サアベドラの『ドン・キホーテ』(1605、1615)と答えるでしょう(大デュマの「ダルタニャン物語」三部作も捨てがたいので、ちょっと迷う)。恐らく今後、これを超える作品に出合うことはないと思います。
メタフィクションの元祖」「騎士道小説のパロディ」「崇高な魂を持った人物の悲劇」「単なる滑稽譚」など様々な角度から分析されていますが、ここで多くを語りません。
 一言だけいわせてもらうと、僕が、現代でも十分に通用すると思うのは、古い小説にありがちな冗漫さや無駄な装飾が少ない点です。「長いし、読みづらそうだなあ」と思っている方がいたら、読まずに死ぬのは本当に勿体ないので、ぜひ挑戦してみてください。

 さて、僕のように「『ドン・キホーテ』こそ史上最高の小説だ」と考えている人に冷や水を浴びせるのが『ナボコフドン・キホーテ講義』(写真)です。
 これは、ウラジーミル・ナボコフが一九五一〜一九五二年にハーバード大学で行なった講義をまとめたもので、彼の没後に出版されました。

 ナボコフは、この講義のために『ドン・キホーテ』の要約を作成し、徹底的に分解しています。
 結論を簡単にいうと「『ドン・キホーテ』は、批評家や読者が寄って集って、崇高な本にしてしまった。しかし、実像はというと、粗野で残酷だし、喜劇としてもちっとも面白くない。首尾一貫していない、ゆきあたりばったりの小説である」ということになるでしょうか。
 そのような小説が高く評価されていることが余程面白くないのか、ときどき主観的な悪口が混じりますが、詳細かつ切れのある分析は、さすがナボコフだなと思います。
 正直、僕も、狂人をからかい、いじめ抜く箇所(特に後編の公爵夫妻登場以後)は、読んでいて辛く感じただけに、ナボコフの批評はある意味で、十分納得できました(「勝利と敗北」の数え方は、恣意的で不満が残ったけど)。

 にもかかわらず、『ドン・キホーテ』に対する愛が変わらないのも、また事実です。かつて『ドン・キホーテ講義』を読んだ後、本編を読み返したことがありますが、面白さは微塵も損なわれていませんでした。
 ナボコフのいう残酷行為や瞞着も、ドン・キホーテの精神が気高く純粋であり、それが他者によって汚されることがないせいか、さほど気にはならないのです。

 また、そのほかの理由として、自己言及の文学である『ドン・キホーテ』は、予めあらゆる批判を内蔵してあるため、誰が何をいおうと、作中に取り込まれてしまう、という点もあげられるのではないでしょうか。
 唾が自分に向かって降ってくることも含めて、セルバンテス非常に優れたセンスと予知能力を有していたといわざるを得ません。

 もうひとつは「貶されても誹られても、好きなものは好き」という感情です。
 例えば『ハックルベリー・フィンの冒険』には不自然な展開が多く、特に結末に関しては評価が分かれています。ヘミングウェイは「あらゆる現代米国文学は、マーク・トウェインの『ハックルベリー・フィン』と呼ばれる一冊の本に由来する」と持ち上げた後、「ただし、この作品を読む者は、黒んぼジムが少年から盗み出されるところで、読むのをやめなければならない。そこで小説は終わっている。後はただのイカサマだ」なんて述べています。
 これもそのとおりだと思いますが、完璧であることに大した意味はありません。欠点も含め、丸ごと愛している人にとっては、正に馬の耳に風です。

 なお、『ドン・キホーテ講義』の約半分を占めるのは、ナボコフによる要約と批評です。これを読んで思い出すものといえば、そう『青白い炎』(1962)なんですね(※)。
 この小説は、ジョン・フランシス・シェイドという詩人が遺した九百九十九行の長編詩に、隣人のチャールズ・キンボートが注釈をつけた架空の書物です。が、キンボートは狂人で、詩から完全に逸脱し、架空の王国ゼンブラと国王(キンボート自身)のことを語り続け、やがて、とんでもない結末を迎えます。
 何を隠そう、この作品こそが、僕にとってのナボコフ最高傑作です。惚れ惚れするような完璧な出来で、二十世紀の文学ベスト10には確実に入ってくるでしょう。
 これが生まれたきっかけのひとつが『ドン・キホーテ』の講義だったとしたら……なんて考えると、本当ゾクゾクしてきます。

 というわけで、評論としてなら、カルロス・フエンテスの『セルバンテスまたは読みの批判』の方が、あるいは上かも知れません。けれど、『ドン・キホーテ講義』はナボコフの創作の秘密に迫るという意味で、大変興味深い本なのです。

※:アレクサンドル・プーシキンの『エヴゲーニイ・オネーギン』の翻訳と注釈『Eugene Onegin: A Novel in Verse』は一九六四年に出版された。

ナボコフドン・キホーテ講義』行方昭夫、河島弘美訳、晶文社、一九九二

→『カメラ・オブスクーラ』『マグダ』『マルゴウラジーミル・ナボコフ

ドン・キホーテ』関連
→『贋作ドン・キホーテアロンソ・フェルナンデス・デ・アベリャネーダ
→『キホーテ神父グレアム・グリーン
→『ドン・キホーテキャシー・アッカー
→『ケストナーの「ほらふき男爵」エーリッヒ・ケストナー
→『ドン・キホーテのごとく ―セルバンテス自叙伝』スティーヴン・マーロウ

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