読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『先に寝たやつ相手を起こす』ジャン=エデルン・アリエ

Le premier qui dort réveille l'autre(1977)Jean-Edern Hallier

 ジャン=エデルン・アリエの『先に寝たやつ相手を起こす』(写真)は、ミュリエル・スパークの『邪魔をしないで』や『ホットハウスの狂影』と同じ年(一九八一年)に、同じハヤカワ・ノヴェルズから、発行されました。
 っていうか、前回とのつながりは、それだけなんですけどね……。

 脳腫瘍によって十一歳で亡くなった兄オーベール。語り手である弟のポールは、ごっこ遊びに高じたり、ひとりの少女を奪い合ったりした日々を思い出してゆく。彼の目を通した病や死、戦争、大人たちは、ときに美しく、ときに汚らわしい。
 いわば、「瑞々しい感性」とか「鮮烈なイメージ」なんて宣伝文句で飾られるタイプの、いかにもフランス文学らしい小説……なんて思ったら、大間違い。

 いや、まあ、そういう読み方もできるとは思うんですが、作者の狙いは、そんなところにはなさそうです。というのも、語り手であるポールは、十歳にしては大人びすぎていて、選択される言葉も、語られる内容も異様だからです。
 そもそも、子どもによる一人称を用いるということは、感受性は鋭いけれど、感じたことを表現するための経験や語彙に乏しい点を覚悟するか、逆にそれを利用する必要があります(アゴタ・クリストフの『悪童日記』みたいに)。にもかかわらず、アリエは、そんなことを最初から放棄しています。難解な専門用語や文学的な表現を多用したり、ときどき医学書からの引用が挿入されたりもします。
 それは「信頼できない語り手」の手法を用いているとか、何らかの仕掛けを施しているというより、既存のものを破壊しようという暴力的な意図が感じられます(アリエは、五月革命で扇動者だったそうだが)。

 この作品が素晴らしいのかどうか、僕にはよく分かりません。詩的散文としてならともかく、小説としては構造的に芸がない気がするし、どす黒いタールのようなねちっこさ、毒々しさ、歪さに辟易させられることも確かだからです。
 読書には「楽しみのため」「知識や教養を身につけるため」「コミュニケーションツールのひとつとして」など様々な目的がありますが、この本は、そのどれにも当てはまりません。それどころか、読んで、よい気持ちになる読者は恐らくいないでしょう(実際、邦訳されたのは、これ一冊のみ)。

 別に貶めているわけではなく、だからこそ、この本には価値があると思うのです。
 他人に気に入られようとするわけでもなく、読者を喜ばせようとするわけでもない。にもかかわらず、強烈に自己主張をしている。まるで、本全体が「俺のやることに、つべこべ文句をいうな!」と叫んでいるようにも思えます。
 不思議なのは、その傲慢さに不快感を覚えつつも、つい惹きつけられてしまうところ。僕にとって、そういう体験ができる本は余り多くないため、とても貴重といえます。

 ちなみに『先に寝たやつ相手を起こす』という変なタイトルは、先に寝た(死の世界へいった)方が、一方を目覚めさせるというような意味みたいですが、分かったような分からないような……。

『先に寝たやつ相手を起こす』村上香住子訳、早川書房、一九八一

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