読書感想文(関田 涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『マイラ』『マイロン』ゴア・ヴィダル

Myra Breckinridge(1967)/Myron(1974)Gore Vidal

 前回と、ちょこっとだけつながりがある本を、これまでときどき選んできました。ずっと続くと連想ゲームみたいで面白いのですが、そんなルールを設けるのは辛そうなので、今のところ適当に遊んでいます。
 というわけで、前回の『マグダ』『マルゴ』とはタイトルが似ているという強引なつながりで、ゴア・ヴィダルの『マイラ』と、その続編『マイロン』を取り上げてみます。

ニューヨークタイムズ」一九六八年二月十六日号の統計によると、『マイラ』は一年で二千八十万部も売れたそうです。当然ながら、早い時期に邦訳され、映画化もされました。にもかかわらず、現在では、同世代(ビート世代)の作家の代表作、例えば『路上』『裸のランチ』『シェルタリング・スカイ』『冷血』などと比べると、復刊もされず(※1)、語られることが少ないのが不思議でなりません(※2)。
 勿論、諷刺は賞味期限切れになることがあります。『マイラ』は一九六〇年代の風俗、思想、映画界を皮肉っているため、時代遅れの感が強くなってしまうのも無理はありません。ですが、そこばかりに目を向けるのは、何とも惜しい作品であることも確かです。
 エッセイストとしても評価の高いヴィダルの文章は、明晰で、キレがあり、何より抜群に面白い。また、前衛的でありながら、巧みに計算された構成と、魅力的な謎のおかげで、エンタメ小説のように最後まで飽きずに読めます。奇書とされることが多いため、「小難しいのかな」「わけが分からなそう」といった先入観を抱かれるかも知れませんが、まともすぎるほどまともな小説です。

 以下、ネタバレにならないよう、なるべく曖昧に記述します。
 マイラ・ブレッキンリッジは、亡き夫マイロンの財産を分けてもらおうと、ハリウッドにいる叔父の元を訪れます。ところが、叔父は、男色家の甥が結婚していたことに疑いを持ちます。そこで、マイラを自分が経営する俳優養成学校の講師にして様子をみることにしました。マイラは、そこでラスティとメアリ=アンという若い恋人に興味を持ち、ふたりを性的に支配しようと考えます。一方、死んだと思われたマイロンは実は生きていて……。

 マイラは、美しく、知的で、進歩的な女性です。自らを新しい人類と考えており、思想の実践のため(人口過多を解決するには同性同士愛し合うべき)、あるいは復讐と称して周囲の人々(ホモセクシャルレズビアン、性的不能者、マゾヒストなど)を振り回します。不遜で自分勝手にもかかわらず、ちっとも嫌な感じがしないのは、財産の分け前を手にしようとする点はともかく、性愛に関するマイラの真の狙いが今ひとつ明確ではないせいかも知れません(男性の性的攻撃性を憎んでいるようですが)。
 尤も、それは彼女の正体が終盤まで秘密にされることとも関係があります。マイラとは何者で、何を企んでいるのか分からないことが、彼女の魅力を高めているのです。

 一方、マイラの死後現れるマイロンは、過去をあっさりと捨て、今や幸せな家庭を持った俗物です。彼は、マイラの全てを否定し、狂人とまでいい切ります。しかし、マイラとともに歩んできた読者は、みた目の醜悪さもあって、寧ろ彼の方をグロテスクと感じるのではないでしょうか。つまり、いつの間にかマイラに毒され、価値観が転換していることに気づかされるわけです(ラスティが立派なゲイになったと知り、ほっとしてしまったり……)。
 それによってゾッとさせられるというより、歪な女神が消えたことを寂しく思う。読後の取り残されたような感覚は、オチの善し悪しではなく、マイラの存在感が虚構という器を超えたがための宿命のようなものでしょう。

『マイロン』の方は、サンリオSF文庫に入っていることからも分かるとおり、完全なSFです。

『マイラ』から六年後の一九七三年、中華料理のデリバリーショップを営む三十五歳のマイロンは、ある夜、一九四八年に製作された『バビロンのセイレン』という映画のなかに放り込まれてしまいます。映画といっても、ストーリーのなかではなく、撮影所周辺。しかも、他所者はマイロンひとりではなく、様々な時代から八十人ほどがやってきているらしい。

 設定は面白いものの、ルールはややこしく、説明も間怠っこしい。もう少しスッキリしていたら、多くの人に真似されたのではないでしょうか〔リチャード・マシスンの『ある日どこかで』(一九七五)は、少しだけ似ているような、似ていないような……〕。
 また、マイロンを過去に送り込んだのはマイラで、以後、マイラとマイロンは、ほぼ一章ごとに現れ、ひとつの体を奪い合います。そして、ここでもマイラの章の方が圧倒的に面白い。彼女の野望は『マイラ』より壮大になっており、二十五年前に遡り、男性を去勢し、理想の世界の支配者になることを企んでいたりするから吃驚です(または凋落しつつある映画産業の救済を目指す)。

 決して詰まらなくはないのですが、特に終わり近くはかなり強引で、「ついてこられない読者もいるだろうな」というのが正直なところです。最も残念なのは、タイムスリップとリピートを組み合わせた複雑な設定が放置され、オーソドックスなタイムパラドクスで幕を閉じてしまった点です。
 それでも、マイラは相変わらず素敵ですので(無邪気に男を犯したり、勝手にパイプカットしちゃったりする)、どうせなら二冊続けてお読みになってはいかがでしょうか。古い映画が好きな方には、尚お勧めです。

 ところで、『マイラ』の帯には「エリザベス・テーラー主演で映画化される」とありますが、実際、マイラを演じたのはラクエル・ウェルチでした。『ラグタイム』のときも「監督が違った」と書きましたが、こういうのって、どの時点の情報なんでしょうね(※3)。

※1:この本に限らず、絶版本の復刊は全く望んでいない。稀覯本でもない限り、古書を求めるなり、図書館を利用するなり、何とでもなるからである。「高くて買えない」とか「新品が欲しい」というのは、要するに「どうしても読みたいわけではない」ってことではないだろうか。
 なお、僕が絶版の本ばかり紹介するのは、情報を少しでも増やしたいから。古い小説に興味を持ってもらうのが大切で、それに比べれば、本を手に入れるための努力なんて高が知れている。というわけで、復刊なんてするくらいなら、未訳の本を出版して欲しい。

※2:アーウィン・ショーの「小さな土曜日」(Small Saturday)という中編には、ゴア・ヴィダルの友だちが書いた『マイラ・ブレッキンリッジの料理の本』というヤバい本が登場する。

※3:僕のように海外文学(翻訳小説)が好きな者にとって「映画化」というのは無視できない要素である。映画の方はみないことが多いので、「原作に忠実か」「どこが変えられたか」なんてことはどうでもよく、肝腎なのは、日本で公開されると、映画の原作ってことで訳される可能性が高いという点。
 未知の作家に出合えたり、翻訳されるのをほとんど諦めていた作品を読めたりするのは、とても嬉しい(デメリットはこちら
 一方、映画化され、そこそこ話題になったのに、翻訳されなかった作品も稀にはある(ジョン・オハラの『BUtterfield 8』など)。


『マイラ』永井淳訳、早川書房、一九六九
『マイロン』沢村灌訳、サンリオSF文庫、一九八一


→『大予言者カルキ』ゴア・ヴィダル

サンリオSF文庫、サンリオ文庫
→『どこまで行けばお茶の時間アンソニー・バージェス
→『深き森は悪魔のにおい』キリル・ボンフィリオリ
→『エバは猫の中ガブリエル・ガルシア=マルケスオクタビオ・パスほか
→『サンディエゴ・ライトフット・スー』トム・リーミイ
→『ラーオ博士のサーカス』チャールズ・G・フィニー
→『生ける屍』ピーター・ディキンスン
→『ジュリアとバズーカアンナ・カヴァン
→『猫城記』老舎
→『冬の子供たち』マイクル・コニイ
→『アルクトゥールスへの旅デイヴィッド・リンゼイ
→『旅に出る時ほほえみを』ナターリヤ・ソコローワ
→『』ロザリンド・アッシュ
→『浴槽で発見された手記スタニスワフ・レム
→『2018年キング・コング・ブルース』サム・J・ルンドヴァル
→『熱い太陽、深海魚』ミシェル・ジュリ
→『パステル都市』M・ジョン・ハリスン
→『生存者の回想』ドリス・レッシング
→『マラキア・タペストリ』ブライアン・W・オールディス
→『この狂乱するサーカス』ピエール・プロ
→『バドティーズ大先生のラブ・コーラス』ウィリアム・コツウィンクル
→『どこからなりとも月にひとつの卵』マーガレット・セントクレア
→『ドロシアの虎』キット・リード
→『飛行する少年』ディディエ・マルタン