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読書感想文(関田 涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『カメラ・オブスクーラ』『マグダ』『マルゴ』ウラジーミル・ナボコフ

Камера Обскура(1933)/Magda(1934)/Laughter in the Dark(1938)Владимир Набоков, Vladimir Nabokov

 生涯で好きな作家を三人あげろといわれたら、三人目くらいに入ってきても全く不思議じゃないのがウラジーミル・ナボコフ(※1)。
 ロシア語と英語で執筆し(仏語、独語もできたらしい)、自作の英訳、露訳もしたナボコフの場合、日本での出版物が少々ややこしくなっています。最近、新訳が出た『賜物』も『カメラ・オブスクーラ(以下、カメラ)』も、初のロシア語からの邦訳が売りのひとつになっていました。

 今回取り上げる『カメラ』『マグダ』『マルゴ』は、元々同じ作品です。ロシア語で書かれた『Камера Обскура』の仏訳が『Magda』で、そこから和訳したのが『マグダ』です。また、作者自ら英訳した『Laughter in the Dark』の和訳が『マルゴ』になります。
『マーシェンカ』(Машенька、英語版はMary)のように余り変わっていない作品もあるのですが、『カメラ』『マグダ』と『マルゴ』は、細部にかなり違いがあって、それが面白いので、比較しつつ感想を書いてみたいと思います。

 まず、『マグダ』は、『カメラ』を翻訳したものなので、基本的には同じはずですが、一部、章の切れ目が異なっています(『マグダ』では1章がプロローグと1章に分割され、逆に13章と14章がくっついている。『カメラ』において重複する17章が直っているので、トータルでは、どちらも36章+1)。
 さらに、『マグダ』の方には、説明的な文章や会話が追加されています。これらはどうやら仏訳時に加わったようですが、文学というのは無駄な文字をいかに削るかが重要ですから、多少理解しやすくなっているとはいえ、好ましい配慮とはいえないでしょう。ほかには、なぜかポパイやミッキー・マウスなどが出てきたり、作中の時間や数値が微妙に違ってたりもします(体温四三度というのは、四〇・三度の間違いか?)。
 原著に忠実なものを求めるなら、迷わず『カメラ』をお勧めしたいところですが、日本語としてこなれていない箇所が目につくのが、やや不満(「オットーはマグダの兄だが、妹より三つ年上で」とか)。この辺は、もう少し何とかして欲しかったと思います(※2)。

 次に『カメラ』と『マルゴ』を比較すると、登場人物の名前が、以下のように、すっかり変わっています。


『カメラ』(貝澤 哉訳)
マグダ・ペータース
ブルーノ・クレッチマー
アンネリーザ
マックス・ホーエンヴァルト
ロバート・ホーン(ミューラー)

『マグダ』(川崎竹一訳)
マグダ・ピータース
ブルノ・クレチマル
アンヌ・リザ
マクス・ホーヘンワルト
ロバート・ホーン(ミュラー

『マルゴ』(篠田一士訳)
マルゴ・ペータース
アルベルト・アルビヌス
エリザベート
パウル・ホッフェンヴァルト
アクセル・レックス(ミラー)

 それ以外の大きな変化として、『マルゴ』は「モルモットの人気キャラクターであるチーピーが出てこない」「女優が、トルストイをドールズ・トイ(人形の玩具)と聞き間違える」「山歩きの帰りに乗る電車が、バスになった」「義弟チューリッヒに向かわせるのが、作家から妻になった」などがあげられます。また、レックスがマルゴに話す偶然の一致の譬え話や、ユーモアのヘーゲル風三段論法などは『マルゴ』で新たに加わりました。

 そうしたなかで最も残念なのは、クレッチマーの友人である作家が書いた変な小説がカットされていること。ここは「電車に乗り合わせた歯痛のフランス人と、いちゃつくカップルにインスピレーションを得て、作家が歯科医院の待合室の場面を描く。それを読み聞かされたクレッチマーは、マグダの浮気に気づく」というシーン。難解な哲学小説のパロディみたいで面白いのですが、少し浮いた感じがすることも確かですから、『マルゴ』では削除したのかも知れません(浮気に気づくきっかけが、退役軍人との会話になった)。
 けれど、一見さりげない状況描写から、浮気発覚まで一気に持ってゆくところは実に見事。また、マグダのことなら僅かな点も見逃さないクレッチマーの偏執さがよく現れているので、削ってしまうのは非常に惜しい気がします。

 この物語は、美しいけれど、軽薄で罪悪感を持たない悪魔のような少女にいかれた男の悲劇を描いています。ロシア語のタイトルは「暗箱」という意味で、英語のタイトルは「闇のなかの笑い」となることからも明白ですが、マグダの魅力に取り憑かれたクレッチマーは、妻子に逃げられようが、娘が死のうが、“盲目的に”少女を愛し続けます。やがて、事故によって、文字通り“盲目”になってしまうのですが、それでもマグダを信じ続ける。

 マグダの浮気を見破ったこと、また、失明した後、マグダ以外に何者かがいると気づくところ、またチューリヒの山荘やラストシーンでの大冒険など、クレッチマーの神経は、マグダのことになると異様に研ぎ澄まされます。
 一方で、彼は、最後までマグダの本質を見抜けず、彼女によって、自分が破滅しつつあることにも気づきません。
 そうした危ういバランスの取り方が、とにかく絶妙です。ストーリー自体は安っぽいメロドラマにもかかわらず、陳腐さは全く感じません。勿論、それは、後期の傑作『青白い炎』や『アーダ』ほどではないにしろ、凝った文体や技巧によるところも大きいとは思いますが、同時に高いサスペンス性を維持し、読者に優しい(読みやすい)のは、さすがナボコフといった感じ。

 それ故、つい急いで頁をめくってしまうのですが、細部の様々な仕掛けをみつけるのも、彼の小説の楽しみのひとつです(上述した作家の小説についても、物語の序盤でほんの少し言及されていたり、ラストで初めて出てくるアパートの管理人の名は、クレッチマーが自分の名前を偽るとき、既に使ってたりする)。
 そのためにも、三つのバージョンに取り組むのは無駄ではないと思います。まあ、三冊一気に読むのは、正直辛いですけど……。

※1:ジョン・バースの『びっくりハウスの迷子』のときにも、同じことを書いた。これは、一番目と二番目が恐らく一生不動だという意味。そのふたりとは、マーク・トウェインとウィリアム・フォークナー。勿論、アメリカ文学に限った話である。

※2:僕は「翻訳には寿命がある」とか「いま、息をしている言葉で」という考えが好きではない。問題が多い訳は修正されるべきだし、昔とは翻訳の方法自体が変化しているというのも理解できる。新訳は、純文学のカバーに今風のイラストを用いるのと同じく、若い人に興味を持ってもらうための手段のひとつとしては有効であるとも思う。
 けれど、個人的には、古典は古い訳で読みたい。原著が出版された直後に邦訳されたものの方が、時代の雰囲気が伝わるような気がするからである(単に古臭いのが好きってこともあるが)。
 なお、圭書房を主催している留守晴夫は、メルヴィルの『バートルビーベニト・セレノ』『ビリー・バッド』などを歴史的仮名遣いで訳している。試しに一冊買ってみましたが、なかなか面白かった。


『カメラ・オブスクーラ』貝澤 哉訳、光文社古典新訳文庫、二〇一一
『マグダ』川崎竹一訳、河出書房新社、一九六〇
『マルゴ』人間の文学9、篠田一士訳、河出書房新社、一九六七


→『ナボコフのドン・キホーテ講義ウラジーミル・ナボコフ