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読書感想文(関田 涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『夜のみだらな鳥』ホセ・ドノソ

チリ

El obsceno pájaro de la noche(1970)José Donoso

 絶版の本にも流行り廃りがあって、すっかり忘れ去られてしまったものもあれば、俄に注目を浴びるものもあります。
 ホセ・ドノソの『夜のみだらな鳥』は、朝日新聞の書評で筒井康隆が取り上げたり、木村榮一の『ラテンアメリカ十大小説』(岩波新書)に入ったりして(木村氏は二十年ほど前、雑誌のアンケートでも、この作品を六位にあげていました)、ここのところ話題になっているようなので、便乗して再読してみました。

 ラテンアメリカ文学というと、マジックリアリズム、実験的な技法、そして豊穣な物語を思い浮かべる方が多いと思いますが、『夜のみだらな鳥』は、そのどれもが絶妙な、あるいは滅茶苦茶なバランスで成り立っている奇跡のような作品です。
 自由奔放かつ挑戦的な手法と、濃密な悪夢のようなイメージの連続に、まず圧倒されますが、この作品が凡百の前衛小説、幻想小説と違うのは、語りの巧みさです。
 これがなければ、狂気が支配する暗く出鱈目な世界を縦断することなど、とてもできなかったでしょう。

 そもそも語り手であるウンベルトは、作家です。
 作家の一人称(ともいえない部分も多いけど)という時点で、一筋縄ではいかない技巧が凝らされていることを暗示しています。実際、ものが突然「おれ」になったり、矛盾する記述があったり、時間や空間を飛び越えたりと、やりたい放題。勿論、これは、現実と虚構、嘘と妄想、死者と生者、過去と現在などの境界を曖昧にするための仕掛けです。
 以下は、作中人物による自己言及ですが、見事に的を射ています。
「彼には簡潔平明に書くという素質がなかったわ。普通のこともひとひねりせずにはいられないのよ。復讐と破壊の衝動みたいなものを感じていたのね。最初のプランをやたらに複雑にし、ゆがめるものだから、しまいには、彼自身が迷路に踏み込んでしまったような感じだったわ。彼が築いていく、闇と恐怖に塗りこめられたその迷路のほうが、彼自身よりも、またほかの作中人物よりも強固でしっかりしていたんじゃないかしら。作中人物はいつも不明瞭で、不安定で、決して一個の人間としての形をとらなかったわ」
 当然、こうした小説は、読者を選ぶことが多い。上手く乗れないと、作者の自慰をみせられているような気になり、白けてしまいます。

 しかし、繰り返しますが、語り手のウンベルトは作家です。小説など書いたこともないのに作家を名乗り、後に自費出版で、たった一冊(百部)発行したことがあるだけとはいえ、ラテンアメリカの作家なのです。
 抑圧され、屈折した半生を、異常な精神状態の下で振り返るときでさえ、読者をこれっぽっちも退屈させません。
 これは、彼の体を流れる血のなかにも、力強い物語と、それを魅力的に語る技術が混じっていることを表しています。

 いや。血などといっては失礼かも知れません。
 南米の作家たちは、語り口を徹底して考え抜いたという話をよく聞きます。『燃える平原』も、『百年の孤独』も、『リタ・ヘイワースの背信』も、そうした苦悩の末に誕生したのでしょう。
 真の作者であるドノソは、この大作を八年かけて完成させました。
 ウンベルトと同じく、胃潰瘍を患い、モルヒネの副作用で幻覚に苦しんだそうです。
 その体験が、出口のない巨大な迷宮の構築につながったのだとしたら、作家としては最高に幸せではないでしょうか。

『夜のみだらな鳥』世界の文学31、鼓直訳、集英社、一九七六