読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『びっくりハウスの迷子』ジョン・バース

Lost in the Funhouse(1968)John Barth

 生涯で好きな作家を三人あげろといわれたら、三人目くらいに入ってきても全く不思議じゃないのがジョン・バース
 ストーリーテラーとしての才能を遺憾なく発揮した長大な物語と、明らかに読者を選ぶ実験的な手法を併せ持つ二十世紀アメリカ文学界の巨人ですが、僕にとっては「最高の知性を用いて猥雑なことをやってる変なおっさん」といった方がしっくりきます。
 これは勿論、褒め言葉です。彼の書くものはやたらと難しい上に、過剰な悪ふざけとか、言葉遊びとか、度を超した脱線とか、どこまで本気なのかが首をひねるような要素がたっぷりあって、容易には理解できません。でも、それが癖になるんですよね。若くて時間も体力もあった頃は、夢中で読み耽りましたっけ。

 で、どの本の感想を書くか迷ったんですけど、色々と考えた結果、『びっくりハウスの迷子』という短編集を選びました。
 というのも、やはり、この作品が最もメタフィクションらしいから。
 しかも、短編集ということもあって、長編ではできないような斬新な試みやテクニックが満載されています。余りに前衛的すぎて僕の頭ではついていけないものもあるのですが、短いので、まあ適当に誤摩化しつつ読み進められるところも気に入っています。

 と、感想を書く前に一言お断りしておきますが、この作品は今のところ部分訳しかなく(※)、しかも僕はそれを持っていないんです。で、やむを得ずペーパーバック版で読んだため、解釈に大きな間違いがあるかも知れません。

『びっくりハウスの迷子』は、個々に独立した短編を収めてあるわけではなく、かといって単純な連作短編集でもありません。というのも、一応の主人公であるアンブローズは、すべての短編に登場するわけではないし、小説とはいえないような断片的な作品(物語もキャラクターも存在しない)もいくつか収録されているためです。
 今読むと、全体の構造はそんなに難しくもないし、突飛でもありません。「本の端を切り取ってメビウスの輪を作れ」という指示のある枠物語(写真)のとおり、夜の海をゆくアンブローズの精子(受胎)から始まって、海辺でメッセージボトルを拾うアンブローズを経て、島流しに会ったギリシアの無名詩人が山羊皮にイカの墨と血とワインで書いた作品を葡萄酒の甕に入れ、海に流すという最終話で、ねじれた輪が一周します。

 さて、この短編集のなかで僕が一番心奪われたのは十三話の「メネラウス物語」です(『びっくりハウスの迷子』にはギリシア神話を題材にした作品がいくつか収められているが、これもそのひとつ。で、それらはそのまま次作『キマイラ』につながってゆく)。
 なので、ここでは「メネラウス物語」に絞って感想を書いてみます。

 これは、七重の入れ子構造になった非常に複雑な作品です。全短編の数と同じ十四の章に分かれていて、まず一章から七章まで進んだ後、今度は逆に七章から一章に戻るという構成。勿論、最初と最後をねじって結ぶとメビウスの輪ができ、ここでも小さな循環が作られる。
 実は、十四話の「無名抄」も、この短編集全体の縮図であり、あちこちに自己相似のフラクタル構造を見出せます。

 七重の物語内物語というのは、「AがBに語る」「その場面をCに語る」「その場面を、さらにDに語る」てな感じ。これが章ごとに層を作っているのなら、そんなに分かりにくくないのですが、セリフのなかのセリフとして当たり前のように語られるところが曲者。しかも、章が進むにつれ引用符は増え続け、例えば七章では、こんなふうになります。

“ ‘ “ ‘ “ ‘ “話せ!” と新枕の夜にメネラウスヘレネーに向かって叫んだ’ とトロイの寝室でヘレネーに思い出させた” と浜辺でエイドテエに告白した’ と洞窟口でプロテウスに断言させた” と船の上でヘレネーに保証した’ と少なくともスパルタの屋敷でペイシストラトスに語った” と私は……

 訳が下手なのはおいといても、そう簡単に理解できるようなもんじゃありません……。ぼけっとしてると、正に作中で迷子になり、永遠に抜け出せなくなる。
 そこを何とかかんとかクリアすると、漸く物語の核心(「なぜ、私などと結婚したのか」と問うメネラウスに対して、「それは愛のためです」と答えるヘレネー)に辿り着けるのですが、ほっとするのも束の間、不貞を働いたヘレネーを問い詰める過程で、「トロイへいったのは雲から作り出したもうひとりのヘレネーで、自分は飽くまで貞淑な妻である」という告白が待っています。
 これによって、メネラウスは自らの体験を信じられなくなります。それでも語ることをやめようとはせず、最終章では、体が朽ち果て声のみの存在となってしまうのです。

 七重の入れ子構造は、七話「びっくりハウスの迷子」の迷路や、六人の声を聞き分ける十一話「グロソラリア」を思い起こさせますし、メネラウスの運命は、「私」と「彼」の区別がつかなくなったり、過去に自分の書いた作品を海辺で拾ったのではないかと考える「無名抄」の詩人や、他人の言葉を他人の声で繰り返すだけの精霊エコー(八話「エコー」)に似ています。

 このように『びっくりハウスの迷子』の各短編は、お互いに響き合い、複雑な迷宮を作り出しています。
 そのせいで読者は、同じ道を何度も通ったり、どこに進んでよいのか途方に暮れたり、気がつくと出発点に戻ってたりするのです。
 しかし、手を替え品を替え、永遠に語り続けることこそが、作者の狙いだと僕は思うのです。
 先にも述べたようにバースは、『酔いどれ草の仲買人』『やぎ少年ジャイルズ』など超大作をいくつも書いています。長編小説の最大の魅力はその長さにありますが、それでもいつか終わりがやってきます。
「永遠に終わらない物語」は、作者にとっても読者にとっても、正に夢。
『びっくりハウスの迷子』は、その夢に少しでも近づこうとする挑戦なのではないでしょうか。

※:調べてみると、日本語訳があるのは全十四話中五話分のようである(「夜の海の旅」「アンブローズそのしるし」「嘆願書」「びっくりハウスの迷子」「無名抄」)。
 翻訳されているバースの小説やエッセイはほとんど持っているのだが、この部分訳は一編ずつ別のアンソロジーや雑誌に収録されていることもあって手に入れていない。どこの出版社でもいいから、早く全訳を出版して欲しいなあ。


→『船乗りサムボディ最後の船旅ジョン・バース

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